三根郡

明治11年郡区町村編制法により改めて発足。その際に現中原町・北茂安町の地域が養父郷に編入され,郡域は著しく狭くなった。郡役所は養父・基肄の2郡とともに3郡連合で轟木町に置かれた。明治21年の県統計書によると,戸数2,140戸,人口は平民1万747人・士族1,068人の計1万1,815人となっている。農民層の分解も明治17年をピークに進行した。明治21年の地所売買高をみると県内では少ないほうで1万6,224円,質入れ書入額は1万3,850円であった。明治22~23年の郡内の自作地小作地をみると,自作地(田)1,050町,小作地(田)372町,自作地(畑)148町,小作地(畑)30町で小作地率は県内でも最も低い方で,また専業1,275町・兼業373町であった。明治22年の「農事調査」では米の反当収量は1石8斗で,その人夫量は30人,肥料金額は2円13銭で県下でも労働力のかかるほうであった。明治22年市制町村制により南茂安村・上峰村・三川村の3か村となる。明治29年養父郡・基肄郡と合併して三養基郡となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7446823 |





