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養父郡


江戸期の当郡は,南半分は佐賀藩領,北半分は慶長4年対馬の宗義智が薩摩国出水郡のかわりに,基肄郡とともに領有するようになった。対馬藩領は基肄郡田代町に代官が置かれたため対馬藩田代領と通称される。佐賀藩領はほとんどが本藩領となっていた。「慶長国絵図」では対馬藩領の高5,707石余・物成2,294石余,佐賀藩領の高7,387石余・物成4,214石余,ほかに小物成6石余とある。対馬藩田代領では慶長14年までに検地が終了し,当郡は11か村・高5,883石余となった。佐賀藩領でも慶長16年までに総検地が実施され,その石高を幕府が認めて公式の所領高となったが,当郡における石高は不詳。「寛文朱印留」では,佐賀藩領は13か村・高6,321石余,対馬田代領は10か村・高4,280石余。「元禄国絵図」では郡全体で高1万601石余とあり,「寛文朱印留」の合計高と同じである。「天保郷帳」では23か村・高1万3,204石余。「旧高旧領」では15か村・高1万7,901石余,うち佐賀本藩領が10か村・高1万1,463石余,対馬藩田代領から5か村・高6,437石余。田代領の支配は,対馬本藩から派遣された代官(正・副)以下の役人によったが、田代領内からとりたてられた郷足軽もいた。この郷足軽は正徳3年には合計50名で,6名の小頭【こがしら】もその中から選ばれた。大庄屋は当郡には1名がおかれ,基肄郡の上郷1名・下郷1名とともに農村を支配した。また,瓜生野町には別当がおかれて町政の運営にあたった。対馬藩田代領分の享保2年の戸口は,竈数827軒(うち瓜生野町180軒)・人口3,602人(うち瓜生野町786人)・神社18社・寺院6寺・馬319頭・牛171頭(鳥栖市史)。佐賀藩領分は天明6年に男1,885人・女1,295人の計3,180人。明治4年佐賀県・厳原【いずはら】県,同年伊万里【いまり】県,同5年佐賀県,同9年三潴県・長崎県を経て,同16年佐賀県に所属。明治4年から5年にかけての大区小区制では,第2大区に配され,明治8年になると,三根・基肄・養父の3郡をまとめて第3大区とし,明治9年には三潴県の第15大区となり,4か月後は長崎県の第42大区に編成された。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7446975