有家村(近世)

江戸期の村名。高来郡のうち。島原藩領。禁教令により天正17年からキリシタン迫害が行われ,寛永14年の島原の乱には住民全員が参加した。「有馬原城兵乱記」などに当村770軒・4,545人全員参加とあり,原城籠城。参加者全員討死のため無人の郷となる。乱後幕府の移民政策により幕府領の四国の小豆島や九州各藩からの移民によって復興。承応元年従来の有家三地区,すなわち東筋または東方は蒲河名・尾之上名・堀之内名・升ノ上名・池田名の5名,中通または中は慈恩寺名・見竹名・山川名・久保名・法道名の5名,西筋または西方は婦(法)恩寺名・志斗(登)名・西之浦名・長野名・龍石名・須川名の6名を改め,東筋を有田村,中通を有家町村,西筋を隈田村と定め,寛文5年公称する。以後当村は有田村・有家町村・隈田村に分かれる。なお,「元禄郷帳」の末尾に有家のうちとして付記された法堂村(法道村)・堀内村・池田村・久保村・山川村・尾上村(尾之上村)・蒲川村(蒲河村)・井ノ上村(升ノ上村の誤記)・志斗村・法恩寺村(婦恩寺村)は,独立村ではなく,有家村16名のうちの名称である(有家町郷土誌)。明治4年島原県を経て,長崎県に所属。同5年有田村・有家町村・隈田村を合わせて有家村と称した。同8年当村は東部・西部に分かれ,同12年東部が東有家村,西部が西有家村となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7447246 |





