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壱岐郡


近世の当郡はすべて平戸藩領であった。村数・高は,「寛文朱印留」では13か村・9,816石余,「元禄郷帳」では23か村・1万49石余,「天保郷帳」では23か村・1万7,577石余,「旧高旧領」では11か村・1万8,981石余。当郡に所属する村名は,「元禄郷帳」「天保郷帳」ではともに,本宮村・可須村・坂本村(可須村枝郷)・新城村・箱崎村・江角村(箱崎村枝郷)・当田村(箱崎村枝郷)・片山村(箱崎村枝郷)・大左右村(箱崎村枝郷)・諸吉村・今里村(諸吉村枝郷)・大石村(諸吉村枝郷)・永坂村(諸吉村枝郷)・青草津村(諸吉村枝郷)・川北村・深江村・湯岳村・山信村(湯岳村枝村)・鯨伏村・那賀郷村・国分村・立石村(古くは布代村)・布気村の23か村。「壱岐名勝図誌」では,立石村・湯岳村・国分村・布気村・本宮村・可須村・新城村・箱崎村・中郷村・諸吉村・川北村の11か村を記し,また当郡と石田郡の両郡に属すとして深江村・住吉村を記載し,ほかに浦として諸吉村の芦辺浦・八幡浦,立石村の湯本浦,布気村の湯ノ浦,可須村の勝本浦,箱崎村の瀬戸浦を記す。なお,この浦のうち芦辺浦・八幡浦・湯ノ浦・勝本浦・瀬戸浦の5浦は壱岐八浦と称されるものの一部をなす。「壱岐国続風土記」では,深江村・住吉村は壱岐郡とし,上述の11か村に加えて13か村としている。「旧高旧領」では,立石村・湯岳村・国分村・本宮村・可須村・新城村・箱崎村・中野郷村・諸吉村・深江村・住吉村の11か村が見える。平戸藩による領域統治は,在(農村)と浦(漁村)に分けられた。在は,本宮村・可須村・新城村・箱崎村・諸吉村・川北村・深江村・湯岳村・中之郷村・国分村・住吉村・立石村・布気村の13か村,浦は湯本浦・勝本浦・瀬戸浦・芦辺浦・八幡浦の5か浦。在の者は農業で,浦の者は漁業・回船・商業等により生計を立てた。支配機構は,城代のもと壱岐郡・石田郡の各郡には郡代が置かれた。平戸藩では新たに開いた土地は4年間無税であり,干拓による新田は永代利用が許されていた。このため,壱岐郡の有力者は競って新田の干拓工事をした。谷江潟の新田,大左右【たいそう】・平江新田,当田新田,松崎新田,刈田院新田,八幡の新田,棚江の新田,湯ノ本新田,海田新田,諸吉新田などである。これら土地開発には,捕鯨業者・神官・僧侶などが主としてかかわった。平戸藩は,外敵警備のため勝本港入口の若宮島に遠見番所を置いた。勝本浦には,押役所を設け,政務や警備の充実をはかった。神皇寺は,朝鮮通信使の迎接所でもあり,諸行事が行われた。対馬屋敷は,宗氏が対馬と本土の往復や連絡の機関として,勝本浦に設置したものである。民間では,瀬戸の恵比須と勝本の田ノ浦にクジラ組の基地があった。その納屋場では,800人を超す男女が働き,港には20隻余りの商船が出入りしていた。弘化2年に「壱岐細見図」と「壱岐国惣図打添」が作製された。壱岐郡をみると,田が639町余・高1万2,359石余,畑が818町余・高5,348石余,戸数・人口は立石村139・609,湯岳村184・594,国分村111・425,布気村89・451,本宮村199・915,可須村562・2,569,新城村189・785,箱崎村483・1,876,住吉村135・516,中野郷村154・671,諸吉村465・1,915,川北村128・427,深江村136・528の在合計2,974・1万2,281,芦辺浦218・1,200,八幡浦129・533,湯野本浦68・327,勝本浦391・2,060,瀬戸浦168・793の浦合計974・4,913,郡総計3,948戸・1万7,194人。明治4年7月の廃藩置県により平戸県に属し,同年11月長崎県の管轄となる。同5年2月大区小区制施行により,壱岐国は第76・77・78大区の3大区とされ,浦を村に合わせて22小区に区分されたが,当郡では立石村・本宮村・可須村・新城村・箱崎村の5か村が第77大区,国分村・湯岳村・中野郷村・諸吉村・深江村・住吉村と石田郡の石田村・筒城村が第76大区を構成した。同6年12月,壱岐全島が第30大区となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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