壱岐国

天正15年島津義久を討伐するため豊臣秀吉が九州出兵を行い,戦後の処置として平戸松浦氏は本領安堵され,当国をはじめ領内の検地を命じられている。天正19年,豊臣秀吉は朝鮮出兵に当たり,壱岐国勝本城の構築を松浦鎮信に命じた。松浦氏は,有馬・大村・五島の諸氏の応援を得て,この出城を短期間に竣工させた。文禄2年,朝鮮へ従軍した日高甲斐守は,平壌の戦闘で戦死した。関ケ原の戦後も松浦氏は本領を安堵され,当国一円も引き続き松浦氏が領有し,平戸藩領として明治維新まで至る。江戸期には,当国は壱岐郡と石田郡の2郡に分かれていた。松浦氏は「慶長9年惣目録」を江戸幕府に提出したが,同目録では,壱岐は27か村に分けられ,村高は石高で表示されている。これは従来の面積表示から生産力の表現としての高表示へ移行したことで,平戸藩の領地支配が一段と進んだことを表わしている。同目録では,壱岐の総石高1万5,732石,ほかに寺社領250石とある。明暦2年の壱岐国の石高は2万164石,ほかに畑高1万1,405石,平戸藩による壱岐国統治は,在(農村)24か村と浦(漁村)8か浦に区分された。在の者は農業,浦の者は漁業・回船・商業などによって生計を立てさせた。政治機構は,城代のもとに郡代が配され,その下の代官4人が24か村を東目・西目・北目・南目と分け6か村ずつ仕置した。各村には庄屋を置き,その下には触ごとに朷頭【さすがしら】を置いた。各浦には浜使を置き,郷ノ浦にこれを統一する浦役が置かれた。浦役は代官とともに郡代に所属した。新開田1万4,281石の合計4万5,850石(公称高1万7,729石)であった。「元禄郷帳」では高1万8,072石余・50か村と記される。また「壱岐国続風土記」によれば,宝永7年の高3万1,566石余・新田528石余・物成米1万2,411石余・口米371石余・勘米826石余,享保5年の高・反別は3万3,075石余(うち開発高1万5,346石余)・2,796町余,うち田2万491石余・1,030町余,畑1万2,583石余・1,766町余であった。「天保郷帳」では高3万2,742石余・50か村と記され,「壱岐名勝図誌」による文久元年の高・反別は,田2万629石・1,065町余,畑1万1,589石余・1,768町余の合計3万2,219石余・2,833町余。「旧高旧領」では,22か村で3万5,042石余。村名は,「慶長9年惣目録」では,石田村・妻之島・池田村・志原村・初山村・津甫村・武生水村・和多良村・大島・有安村・長嶺村・黒崎村・立石村・住吉村・桜江村・湯岳村・国分村・布気村・本宮村・香須村・新城村・箱崎村・中之郷村・諸吉村・河北村・深江村・筒城村の27か村。「元禄郷帳」「天保郷帳」ではともに,石田郡が石田村・妻之島・筒城村・宮田村(筒城村枝郷)・池田村・志原村・大原村(志原村枝郷)・初山村・若松村(初山村枝郷)・湯船村(初山村枝郷)・坪村・武生水村・片原村(武生水村枝郷)・庄村(武生水村枝郷)・渡浦村・大島・春島(大島枝島)・長島(大島枝島)・物部村(古くは中通村)・喜田村(物部村枝郷)・有安村・長嶺村・大浦村(長嶺村枝郷)・半城村(長嶺村枝郷)・牛方村(長嶺村枝郷)・黒崎村・小牧村(黒崎村枝郷)の27か村,壱岐郡が本宮村・可須村・坂本村(可須村枝郷)・新城村・箱崎村・江角村(箱崎村枝郷)・当田村(箱崎村枝郷)・片山村(箱崎村枝郷)・大左右村(箱崎村枝郷)・諸吉村・今里村(諸吉村枝郷)・大石村(諸吉村枝郷)・永坂村(諸吉村枝郷)・青草津村(諸吉村枝郷)・川北村・深江村・湯岳村・山信村(湯岳村枝村)・鯨伏村・那賀郷村・国分村・立石村(古くは布代村)・布気村の23か村,2郡合計50か村。「壱岐名勝図誌」では,石田郡として石田村・池田村・志原村・初山村・武生水村・渡良村・長嶺村・黒崎村・半城村・物部村・筒城村の11か村を挙げ,壱岐郡として立石村・湯岳村・国分村・布気村・本宮村・可須村・新城村・箱崎村・中郷村・諸吉村・川北村の11か村を記し,また両郡に属すとして深江村・住吉村を記載し,合計24か村とし,ほかに浦として諸吉村の芦辺浦・八幡浦,筒城村の山崎浦,石田村の印通寺【いんどうじ】浦,池田村の久喜浦,武生水村の郷野浦・本居浦,渡良村の渡良浦・小崎浦,立石村の湯本浦,布気村の湯ノ浦,可須村の勝本浦,箱崎村の瀬戸浦を記す。なお,この浦のうち芦辺浦・八幡浦・印通寺浦・郷野浦・渡良浦・湯ノ浦・勝本浦・瀬戸浦の8浦は壱岐八浦と称される。「壱岐国続風土記」もこれと同様に24か村と8か浦を記載するが,深江村・住吉村は壱岐郡として見える。「旧高旧領」では,石田郡として石田村・池田村・志原村・初山村・武生水村・渡良村・長峰村・黒崎村・半城村・物部村・筒城村の11か村,壱岐郡として立石村・湯岳村・国分村・本宮村・可須村・新城村・箱崎村・中野郷村・諸吉村・深江村・住吉村の11か村,合計22か村としている。武家を除いた家数・人数などは,寛政10年約6,385軒・約2万7,739人(うち男1万4,606・女1万2,888・社人58・僧126・山伏9・神子4・陰陽師19・座頭23・念仏坊9),酒屋数38,麹屋数37,神社数836(うち本社42・末社794),社領は46石余,寺院数378(うち本寺5・末寺143・末堂221・修験9),寺領は269石余,馬数25・牛数7,267,船数373(壱岐国続風土記),弘化2年7,372軒・3万1,595人(壱岐国惣図打添),文久元年7,655軒(うち村5,887・浦1,768)であった(壱岐名勝図誌)。「壱岐名勝図誌」は,当国を総論して「抑壱岐国ハ,山川備りて村里絡繹【つらなり】,四方にハ滄海をたゝへ,東ハ筒城の権現崎にかきり,雪にまかふる白砂の浜の真砂のかす多き名所ハ,短き筆に尽しかたし。西ハ渡良の鳥屋野の迫門に限り,天気晴朗にして煙霧なき時ハ,しらぬ高麗【こま】もみえ,見ぬ大清【もろこし】まても思ひやられ侍る。南ハ初山の鰻鼻【いるかはな】にかきりて,野原広濶【はるか】なり。北は山野つらなりて,草木の枝葉繁茂【しけり】,人の家居も殊に栄盛て,勝本の小櫛山の端にかきる。東西三里〈三十六町一里の定〉二十町六間,南北四里十二町五十八間五尺,周囲【めくり】浦続海路十六里十五町四十二間余,海辺三十八里二十七町十三間なり。国の東北を壱岐郡といひ,西南を石田郡といふ。四方にハ海をたゝへ,津泊よけれハ諸国の客舩出入絶す。部内にハ山を負ひ,川をめくらし,田圃広かりけれは,国用豊饒にして,海草魚塩多く,米穀材薪乏しからす。又名所旧跡名産等ありて,気色他州に勝れたり……諸方通漕の便りよけれハ,此国の商人諸国に往来して,有無を交易,又京師大坂の商客も年々に来りて,貨財をあきなふ。対馬・長崎に近けれは,異国の産物を買にも便りよろしきなり」と記している。平戸藩は,朝鮮通信使の迎接を往路・復路ともに壱岐国勝本浦で行った。通信使は慶長12年から文化8年までに12回来朝した。通信使が通過する沿道の諸大名は,すべて自弁で一行を応接し,道路の整備,宿泊所の建築,行列の警固などが課せられた。これらの費用が巨大なものとなり,文化8年には対馬で一行を迎接する易地聘礼となり,簡略化された。近世の産業の中で,鯨組(捕鯨業)はとりわけ大規模であった。平戸藩はこの莫大な利益を生み出す鯨組に着眼し,運上銀を徴収し,多額の御用金を課している。壱岐国での捕鯨は,明応2年に始まったといわれ,突取法から網取法へと捕鯨法が改良され,瀬戸の恵美須,勝本の田ノ浦を中心に,江戸中期が最盛期であった。以後は徐々に衰退し,明治30年をもって終わる。幕末期の壱岐国は,異国船の警固に追われたが,その中心は延宝8年勝本浦に設けられた押役所であった。城代を2人とし,武器・弾薬・貯蔵米が運ばれ,厳重な防備がされた。慶応年間に壱岐沖を通過した異国船は,毎年100艘を超えたが,攻撃を受けることもなく明治を迎える。明治4年7月14日廃藩置県により,壱岐国は平戸県に属す。同年11月14日,長崎・平戸・島原・福江・大村の各県を合わせて新しく長崎県が成立し,壱岐国は長崎県に所属した。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7447300 |





