石田郡

近世の当郡はすべて平戸藩領であった。村数・高は,「寛文朱印留」では14か村・7,912石余,「元禄郷帳」では27か村・8,023石余,「天保郷帳」では27か村・1万5,165石余,「旧高旧領」では11か村・1万6,061石余。当郡に所属する村は,「元禄郷帳」「天保郷帳」ではともに,石田村・妻之島・筒城村・宮田村(筒城村枝郷)・池田村・志原村・大原村(志原村枝郷)・初山村・若松村(初山村枝郷)・湯船村(初山村枝郷)・坪村・武生水村・片原村(武生水村枝郷)・庄村(武生水村枝郷)・渡浦村・大島・春島(大島枝島)・長島(大島枝島)・物部村(古くは中通村)・喜田村(物部村枝郷)・有安村・長嶺村・大浦村(長嶺村枝郷)・半城【はんせい】村(長嶺村枝郷)・牛方村(長嶺村枝郷)・黒崎村・小牧村(黒崎村枝郷)の27か村。「壱岐名勝図誌」では,石田村・池田村・志原村・初山村・武生水村・渡良村・長嶺村・黒崎村・半城村・物部村・筒城村の11か村を挙げ,また当郡と壱岐郡の両郡に属すとして深江村・住吉村を記載し,ほかに浦として,筒城村の山崎浦,石田村の印通寺浦,池田村の久喜浦,武生水村の郷野浦・本居浦,渡良村の渡良浦・小崎浦を記す。なお,この浦のうち印通寺浦・郷野浦・渡良浦の3浦は壱岐八浦と称されるものの一部をなす。「壱岐国続風土記」もこれと同様に11か村と3か浦を記載し,深江村・住吉村は壱岐郡として見える。「旧高旧領」では,石田村・池田村・志原村・初山村・武生水村・渡良村・長峰村・黒崎村・半城村・物部村・筒城村の11か村としている。平戸藩の領域統治は,在(農村)と浦(漁村)に分けられた。当郡では在は11か村で,石田村・筒城村・池田村・志原村・初山村・武生水村・渡良村・物部村・半城村・長峰村・黒崎村,浦は3か浦で,郷之浦・渡良浦・印通寺浦である。近世における壱岐の軍事・政治の中枢をなした唯一の城である亀丘城がある。この城は,永仁2年肥前上松浦の岸岳城主波多宗無が領地の武生水村に築城したものである。以後,亀丘城をめぐる攻防もあったが,壱岐が平戸藩領となってからは,藩はこの城に城代を派遣して壱岐を統治した。弘化2年,亀丘城の新築成ると,藩主松浦曜【てらす】自ら臨み,国内を巡見している(松浦文書)。この年,「壱岐細見図」と「壱岐国惣図打添」が作製され,当郡は田が444町余・高8,539石余,畑が1,011町余・高6,460石余,戸数・人口は,石田村143・571,池田村210・655,志原村383・1,438,初山村349・1,428,武生水村364・1,493,渡良村472・1,950,長嶺村200・856,黒崎村230・984,半城村140・575,物部村149・603,筒城村175・745の在合計2,815・1万1,298,印通寺浦275・1,230,郷野浦220・1,168,渡良浦114・705の浦合計609・3,103,郡総計3,424戸・1万4,401人。幕末期の壱岐は,異国船の警固に追われた。壱岐沖を航行する異国船は,次第に数を増した。当時,壱岐の家臣団は,城代組・郡代組・勝本押組・若宮島遠見番所組・岳ノ辻遠見番所組から編成されていた。嘉永2年,異国船御手当用法条目を発令し,壱岐の防備体制を一層強固なものにした。しかし,異国船の攻撃を受けることもなく,明治を迎えた。明治4年7月の廃藩置県により平戸県に属し,同年11月長崎県の管轄となる。同5年大区小区制施行により,壱岐国は第76・77・78大区の3大区とされ,浦を村に併せて22小区に区分されたが,当郡では池田村・志原村・初山村・武生水村・渡良村・長峰村・黒崎村・半城村・物部村の9か村が第78大区となり,石田村・筒城村は壱岐郡の6か村とともに第76大区を構成することになった。同6年12月,壱岐全島が第30大区となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7447344 |





