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大浦郷(近代)


 年不詳~大正2年の行政区名。明治22年戸町村,同31年からは長崎市のうち。江戸期は戸町村のうち。安政4年までは大村藩領で,元禄年間頃,書・詩文に長じた唐大通事林道栄が藩主大村純長に邸地を賜った道栄ケ浜(現松が枝町)は,老松が崖下に梢を垂れ,漁舟が出入りする景勝地。長崎八景の1つとして「雄浦夕照」「大浦落雁」などの題で多く詩歌に詠まれた。文政年間成立の「長崎名勝図絵」にも「蒼崖水を挟み,舟人信宿す。漁吹あしたに響き,棹歌晩に唱ふ。民戸数十口」とある。弘化2年「大村郷村記」(長崎市立博物館蔵)が77軒と戸数を記す村内の浦百姓は,大浦湾東岸に集住して漁業や廻船目当ての生業を営んでおり,また当地は天草・五島ほか各地からの来往廻船でにぎわい,大浦舟津とも呼ばれた。安政4年幕府領となり,幕府は同6年~万延元年外国人居留地用に大浦湾を埋め立て,東・南山手を開いた。文久年間道栄ケ浜の海面も埋築,同3年居留地の区域を定め町名をつけたが,居留地9町のうち東山手・南山手・常盤・大浦・下り松(現松が枝)の5町が大浦郷内の新設町となった。なお,長崎の豪商小曽根六左衛門・乾堂父子は安政6年~文久年間字下り松・堀ノ内・浪ノ平の海面を埋築,文久2年その約半分が居留地に編入された。東山手・南山手・常盤・大浦・下り松の5町の居留外人は主に英米貿易商で,安政6年来崎した英商T.グラバーは商会を設立して貿易に従事,薩長土各藩を支援して明治維新を推進,地内では文久2年わが国初の屠牛場を建設,慶応元年大浦海岸通りにわが国初の汽車を走らせた。ほかに同3年近代的ドック小菅修船場を建設。西洋式採炭法で高島炭坑を開発するなど近代文明の導入に貢献した。文久3年建築の南山手グラバー邸はわが国最古の木造洋館遺構で,現在国重文に指定されている。大浦居留地では茶貿易が盛んで,維新前はわが国茶輸出の先駆け大浦お慶を皮切りに英商オルトや,グラバーなどの各商会が東山手・大浦町の各所に製茶工場を建てた。各国領事館も置かれたが,早くは英国が安政6年妙行寺に開設,米・仏が続いた。文久2年東山手にわが国初の新教教会,英国教会堂建立。石橋から教会への坂道は前年に割石舗装され,礼拝の居留外人でにぎわい,居留地内オランダ坂第1号となった。元治元年南山手に大浦天主堂(現存日本最古の天主堂,国宝)が建ち,翌年浦上信徒が信仰を告白し,日本カトリック復活の端緒となった。また文久元年「ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」というわが国初の新聞(英字紙)が居留地内で創刊された。神社は元禄4年大村純長が道栄崎(現東急ホテル付近)に建立した弁財天,同6年大村純長が社殿を建立した諏訪社があった。弁財天は祀っていた大浦舟津の漁民らが幕末の居留地造成で浪ノ平に移されたため,慶応末年字古河ノ辻【ふるこのつじ】(現東琴平1丁目)に移り,維新後伊都岐島神社と改称,明治43年金刀比羅(琴平)神社を合祀した。寺院は万治元年大村純長の援助で西順開創の真宗法嶺山妙行寺,宝暦7年大村本経寺の僧善長日健開創の日蓮宗鍋冠山誠孝院がある。誠孝院は鍋冠山にあった鍋冠上人日親の石像を移して本尊としたのが始まりで,諏訪社西隣にあり,昭和3年東山手の現在地に移転した。鍋冠山(蒙山)の山名は,この石像によるとも,鍋を伏せた形によるともいう(明治4年大蔵卿伊達宗城は鎮鼎山と命名)。明治11年地内の外国人居留地は分かれて長崎区に編入(西彼杵郡村誌)。なお,「長崎市制六十五年史」前編に小曽根町・浪ノ平町・古河町は明治元年町名を付して長崎市街に編入とある。明治8年字田町に公立大浦小学校創立。同18年以降の某年,孤河原・古河ノ辻・古河の3字は浪ノ平郷となる。同24年演芸場の七楽座開設。同25年字笑河内(出雲1丁目)に遊郭ができる。同29年字真篠尾に天満宮移建。同31年長崎測候所が字日南平に移ってきて,同36年から昭和15年まで午砲を鳴らしたため,日南平(風取山)に「どんの山」の呼称を生んだ。明治36年大浦女児尋常小学校(現南大浦小学校)創立。大正2年新町名設置により行政区名が廃止され,大浦を冠称した元町・川上町・日の出町・東山町・下町・相生町・東町・上田町・出雲町となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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