100辞書・辞典一括検索

JLogos

40

大島村(近世)


 江戸期~明治6年の村名。肥前国彼杵郡のうち。単に大島と書かれることも多い。大村藩領。外海地区に属す。枝村として黒瀬村があり,「大村郷村記」では大島村として全体を記したあとに大島村と大島村之内黒瀬村と2か村に分けて村況を記している。黒瀬村は幕末には一定度独立した村として扱われることもあったのであろう。この場合には,百合岳を中心に東北から南西に走る分水嶺によって,北西方の大島村と南東方の黒瀬村とに分かれる。村高は,慶長17年検地による朱印高19石余(大村郷村記),「天保郷帳」23石余,文久2年内検高は大島村全体として143石余,うち田高91石余・畠高51石余,黒瀬村分を除いた狭義の大島村の内検高は74石余,うち田高50石余,畠高23石余(同前)。「旧高旧領」には当村名が見えず,黒瀬村195石余と記される。「大村郷村記」によれば,文久2年の黒瀬村を含む大島村全体の規模は,東西1里18町・南北20町,広さ1,152町余,うち田地14町余・畠地61町余(うち切畠30町余)・山林野1,076町余。また,同書による黒瀬村を除いた大島村の文久2年の村況は,東西1里2町24間・南北10町,広さ460町余,うち田地8町余・畠地33町余(うち切畠23町余)・山林野419町余,内検高の内訳は蔵入地34石余・私領39石余,年貢上納は米59俵余・小麦53俵余,竈数(安政3年改)193,うち小給2・組付間1・新地百姓85・私領105,人数1,007(男504・女503),宗旨別人数は浄土宗6・法華宗14・真宗987,牛55,運上を納める諸職業の軒数は綿弓株2・揚酒株2・塩問屋株1・染屋株1,販売商品として和布・・あおさ・ふのり・麦・生芋・切芋をあげ,村内には大島浦・かしの浦・田の浦があり,船数78,村内に番所があり,寺院はなく,神社は大島鎮守の千手観音,百合岳頂上に金毘比羅大権現などがあると記される。また,村の産業については「田地寡く土地疲瘠,四面皆磯にて,漁師住せず,村民農業を以て産とす」とあり,特産物は薯蕷,大根,葛根など,文政年間に神浦【こうのうら】から百姓が移住し,新地百姓として田畠を開墾し,嘉永5年の検地では田3畝・畠屋敷3町8反1畝・切畠13町3反6畝であったと記される。文政11年百合岳頂上に大島・黒瀬村の新地百姓が石祠1基を建立した。明治4年大村県を経て,長崎県に所属。明治6年黒瀬村の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7447637