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大野村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。高来郡のうち。島原藩領。北目筋に属す。村高は,「正保国絵図」758石余,うち馬場村534石余・甘木村223石余,宝永4年758石余,うち田343石余・畑414石余(島原様子書),「安永3年郷村帳」758石余,ほかに新田108石余,「天保郷帳」876石余,「旧高旧領」879石余。元和2年村役人証文に「大野さし 主水」と村役人名が見える(見聞集)。「元禄郷帳」に古くは馬場村と注記され,「元禄国絵図」でも大野村と甘木名の記載があり馬場は見えないことから,馬場が本村,甘木は枝村ということになる。その後本村から下組名が分かれ,本村は宝永年間までには中組名となった。肥前国高来郡之内松平主殿頭領地島原領絵図によれば大野村・甘木名のほかに浜付近が下組名と表示されている。人数は,安永4年に男675・女638の計1,313(村々大概様子書),文化6年に男701・女729の計1,430(村町人高覚)。「島原様子書」によれば,島原へ陸路2里,村内は甘木・中組・下組の3名に分かれ,宝永4年の反別は田45町余・畑85町余,卯年(寛政7年)改の新切63町余(田1町余・畑61町余),百姓屋床地子免許反別5町余,米津出は当村浜から島原へ海路2里,農間余業は男は塩焼・莚畳拵・茅薪取,女は木緬織,草刈場は400町程で湯江村・東空閑【ひがしこが】村・三之沢村・三会村入会,文政6年改の家数378・人数1,423(男689・女734),馬50,鉄砲2。18世紀初頭には,糀屋1・紺屋2・鍛冶屋1がおり,塩浜1町4反,船8,うち廻船3・藻取船5があった(県史藩政編)。天保9年口之津村より愛津村迄諸事覚帳によれば,家数378,うち本竈208,人数1,386(男696・女690)。村役人は庄屋と乙名3人で,庄屋は出田氏の世襲。同氏はもと大野城主で,肥後の名族菊池氏の末流大野山城の子孫を自称していた。ほかに治安を任務とする士分の番人1名がいた。幕末の島原他各村冥加金名寄帳には,庄屋格金子久太郎,庄屋次席・乙名早稲田善兵衛,吉田清六らの名が見え,平百姓武十は村内最高額の札2貫目を献じて「苗字御免・御目見之者」になっている。鎮守は四面宮ほかに天満宮3社・鹿大明神・大明神があり,堂宇に不動・観音4・弥陀2・釈迦・地蔵2がある。真宗本願寺派強縁山勝光寺は慶長17年僧明順の開基で,初代住職は弟明玄,一説に明玄開基と伝えられる。明治4年島原県を経て長崎県に所属。同11年南高来郡に属す。明治7年私学小泉学校が設立,教員は渡部許,生徒数男9。同8年槙坊私学設立,生徒数男26・女11,学校主は菊池寂然。菊池寂然は勝光寺の縁者か。嘉永5年~明治2年に私塾長池塾の存在も知られており,塾主は長池精造,生徒数男40(県教育史)。「郡村誌」によれば,村の幅員は東北より西南へ2里5町,東南より西北へ12町,地勢は「西南ニ高来山ノ北麓舞岳ヲ負ヒ,東北ニ傾キ海ニ臨ム,左右平地ニ連リ,地勢概ネ平坦,運搬便利,薪樵足ル」,地味は「黒土ニ赤色ヲ帯ヒ,地質肥沃,稲・粱ニ宜ク,桑・茶ニ適ス,水利便也,田方旱損少ナシ」とあり,村内は下組・中組・甘木に分かれ,税地は田42町余・畑173町余・宅地1町余・山林28町余の合計245町余,改正反別は田44町余・畑188町余・宅地19町余などの合計252町余,地租は米381石余・金763円余,国税金は212円余,改正租金は1,660円余,戸数は本籍408・社4(村社1・雑社3)・寺1の合計413,人口は男841・女874の合計1,715,馬356,船23(50石未満漁船)。また,神社は村社の温泉神社のほかに住吉神社・天満神社・水分神社が鎮座,寺院は真宗強縁山勝光寺があり,学校は大野小学校が設置され,明治9年の生徒数は男48・女9,古跡として田井原城址・馬場城址が残り,民業は農業のほか商業26人・工業25人・漁業10人,物産は馬65頭を諫早【いさはや】へ,櫨7万斤を蝋に製して大阪へ,素麺2万斤を諸村へ出すと記される。大野小学校はのちに簡易大野小学校となる。同12年頃から同16年に菅の吉田時右衛門によって窯が経営され,菅焼とよばれたが,資金が続かず廃業。湯江村の神木焼と同じく京都の陶工真淵信三郎の指導で開かれたという。大野浜のボラ供養塔は,同18年菅崎の石干見に入ったボラによって一夜にして巨富を得た湯江の松本氏の建立。明治22年大三東村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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