上波佐見村(近世)

江戸期~明治22年の村名。肥前国彼杵【そのぎ】郡のうち。大村藩領。地方【じかん】地区に属す。江戸前期に波佐見村が上・下2か村に分村して成立。ただし,この分村は大村藩の領内限りのものであったらしく,幕府へ届け出た郷帳類では波佐見村一村となっており,「天保郷帳」では波佐見村として村高2,845石余とある。また,「大村郷村記」では冒頭に波佐見村全体を簡単に触れたあとに,上・下2か村に分けて各村況を記載している。同書での文久2年の内検高は波佐見村としては8,051石余(田7,662石余・畠388石余)となっている。明治3年12月,大村藩最後の改革で冗費節約などのため領内48か村を合併分村して38か村に整理したが,この時波佐見村は正式に上波佐見村・下波佐見村の2か村に分村した。なお,主として田高で分けたので,上波佐見村と下波佐見村の面積比は約2対1となっている。村高は,文久2年内検高4,086石余,うち田高3,842石余・畠高243石余(大村郷村記),「旧高旧領」4,137石余。地内村木郷には寛保2年に建てられた三領石という三角柱の碑があり,南面に「此三領境東西峰尾続雨水分南大村領彼杵郡波佐見郷」,東北面に「此三領境東西峰尾続雨水分佐賀領松浦郡有田郷」,西北面に「此三領境西北峰尾続雨水分平戸領彼杵郡早岐郷」と刻まれている。庄屋は宿郷に置かれ,屋敷内の大銀杏(町文化財)は現存する。横目役所は中尾山に文政3年,折敷瀬郷江良山にも文政9年に建つ。特産物として焼物があり,文禄・慶長の役帰陣の折連れ帰った陶工たちにより村木郷で焼き始めたのが慶長4年とされている。初めは陶器であったが,三股地区で陶石を発見し,「慶長十年ごろ三股皿山立ち初む」とあり(皿山旧記),早くも磁器生産が始まった。以後陶石のある中尾皿山が正保元年,永尾皿山が寛文3年,燃料が豊富な稗木場皿山が寛文7年に焼きはじめられ,この4皿山が今に至るまで焼物の中心となる。他に永田山・木場山・百貫松でも焼かれ,窯跡が現存する。藩では寛文5年三股に皿山役所を設け,絵薬の斡旋,製品の販売などを手がけて窯業の保護奨励に努めた。波佐見産は茶碗・皿・徳利・燗瓶など庶民向けが主で,他の肥前焼とともに伊万里港から積み出されたので,伊万里焼と総称された。波佐見焼で世に知られたものに,くらわんか茶碗・コンプラ瓶がある。京~大坂を上下する淀川の川船で食べ物を売る食器を「くらわんか手」といい,波佐見焼が多く使われた。コンプラ社とは長崎商人の輸出組合で,オランダ東インド会社へ売り出す醤油などの器が,波佐見産のコンプラ瓶である。江戸期に唯一の開港場であった長崎から東南アジア・ヨーロッパへ輸出された。「大村郷村記」によれば,文久2年の村況は,東西1里30町・南北1里10町,広さ3,643町余,うち田地297町余・畠地126町余(うち切畠43町余)・山林野3,219町余,内検高の内訳は蔵入地521石余・浮地1,777石余・請地96石余・新地562石余・私領1,128石余,年貢上納は米3,771俵余・小麦121俵余,竈数1,161,うち大給13・小給38・村医2・足軽8・左官1・畳屋2・間人67・目見百姓1・目見町人1・苗字帯刀百姓7・蔵百姓227・間百姓532・町人1・私領214・請地家来29・上り地百姓18,人数5,531(男2,851・女2,680),宗旨別人数は浄土宗2・法華宗365・真言宗1,174・一向宗3,990,牛155・馬260,運上を納める諸職業の軒数は酒屋3・糀場9・綿屋5・豆腐屋14・鍛冶屋4・染屋5・宿米屋1・皿山米屋2・皿山薪屋3・質屋1・細物屋6・蒟蒻屋2・味噌醤油屋4・呉服屋1・皿山揚酒屋1・油絞株1・蝋株1・鬢付屋1・水車2・瓦焼株1,販売商品として陶器品々・砥石・梨子・柿・蜜柑・九年母・梅・牛房・茶・七島畳・薯蕷・樆梠皮・竹・縄・藁をあげ,村内には焼物生産の三ツ股皿山・永尾皿山・中尾皿山があり,寺院は真宗蓮池山教法寺・松音山西円寺・轟山安楽寺,真言宗(修験)寿明院・実相院があり,神社は金谷山大権現(金谷郷鎮守)・鹿山大明神(宿中鎮守)・熊野大権現(山中藺牟田野々川鎮守)・岩倉大権現(折鋪瀬鎮守)・地蔵尊(村木鎮守)・流鏑大権現(井石鎮守)・聖観音(鬼木鎮守)・聖観音(中尾山鎮守)・白山権現(三ツ股下三ツ股小樽鎮守)などがあると記される。これを見ると,蔵入521石余に対して,浮地1,777石余・私領1,128石余・新地562石余・請地96石余と後者が圧倒的に多いのが特色。城下から遠いこと,江戸期になって溜池・井手の整備がなされ開拓が進んだことなどによる。寺院のうち,教法寺の開基明信は,真宗を信仰するため天正年間キリシタンの迫害を受け,佐賀藩領や平戸藩領に難を避けていたが,禁教の後帰郷し,元和9年に教法寺を草創したもので,領内真宗末寺の初めである。西円寺は寛永年間に開基善空により草創。安楽寺も寛永年間に明了が開基。他に修験場として寿明院・実相院・金剛院があった。「大村郷村記」には神社や祠堂が73も記されていて信仰の篤さがうかがえるが,その多くは東前寺(下波佐見村)の勧請で,神仏混淆を示す。明治4年大村県を経て長崎県に所属。同11年東彼杵郡に属す。学制発布前の明治4年鹿山の地に上波佐見小学校を開設。大村藩では戊辰戦争の賞典禄3万石の一部で領内9か所に小学校を建てたが,その1つである。同6年県令から小学校設置の告諭が届くと同年10月鹿山小学校と改めた。同7年横目役所跡に中尾分校(中尾小学校),皿山役所跡に三股分校(三股小学校)が開設され,この2分校は同19年統合し,内海の地に尋常内海小学校が設けられた。明治8年の人口5,494。「郡村誌」によれば,村の幅員は東西2里12町・南北1里半,地勢は「東ハ陣ノ辻ノ山脈稍ヤ高ク,北ニ旋リテ漸ク低ク連山相重ナリ,南ハ大カス山及焼岩ノ山脈左右ニ連ナリテ聳立シ一面ヲ塞キ,西ハ平田ニ面ス,其勢ヒ斜側ニシテ傾起ス,陸運便利,薪足リ炭乏シ」,地味は「其色赤,其地粘土,其質中,稲粱黍麦ニ宜ク,雑穀ニ適ス,水脈薄ク時々旱ニ苦ム」とあり,村内は宿郷・村木郷・折敷瀬郷・金谷郷・鬼木郷・中尾郷・井石郷・湯無田郷・野々川郷・小樽郷・永尾郷・三ツ股郷に分かれ,税地は田308町余・畑89町余・山林133町余の合計531町余,改正反別は田449町余・畑390町余・宅地42町余・山林744町余・原野104町余の合計1,731町余,地租は米1,251石余・金6,913円余・賦金74円余,国税金は70円余,改正租金は8,087円余,戸数は本籍1,137・寄留1・社6(郷社1・村社1・雑社4)・寺3の合計1,150,人口は男2,795・女2,646の合計5,441,牛193・馬305。また,小樽郷に天明9年発見の砥石山があり,学校は宿郷に鹿島(鹿山)小学校(生徒数男94・女31),中尾郷に中尾小学校(生徒数男51・女9),永尾郷に永尾小学校(生徒数男70・女11)が設置され,宿郷には郵便局があり,神社は金谷郷に郷社の金谷神社,宿郷に村社の鹿山神社があるほか,村木郷に大神宮,井石郷に井石神社,湯無田郷に熊野神社,永尾郷に白山神社が鎮座し,寺院は宿郷に竜渓山教法寺,金谷郷に轟山安楽寺,湯無田郷に松音山西円寺があり,いずれも真宗東派に属し,古跡として金谷郷に松山城跡と十二坊廃寺跡があるとする。さらに,民業は農業739戸・商業165戸・工業170戸・医業3戸などで,物産の産出高は米5,940石・大麦260石・小麦150石・裸麦300石・大豆87石・甘薯72万5,000斤・陶器徳利10万1,376本・同燗瓶5万8,500本・同茶碗8万3,300組,物産の輸出高は米1,120石・陶器徳利7万1,376本・同燗瓶5万5,000本・同茶碗5万7,300組で,東彼杵郡・西彼杵郡・藤津郡・杵島郡・東松浦郡・西松浦郡および熊本県・大分県・鹿児島県・福岡県・大阪府などへ輸出すると記されている。明治22年市制町村制施行による上波佐見村となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7447890 |