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神代(中世)


 南北朝期から見える地名。高来郡のうち。高来東郷に属す。神白・神代村とも見える。南北朝の動乱は全国的規模の争乱であったが,神代などを含む島原半島北部地域もその例外ではなかった。観応3年2月肥前国,ことに彼杵【そのぎ】・高来郡の敵方掃討に発向した足利直冬配下の武将小俣氏連は,当地方の武士たちに馳参を呼びかけつつまず彼杵荘に入った。観応3年3月5日安富泰治軍忠状(深江文書/南北朝遺3363)によれば,氏連が彼杵荘より高来郡千々石【ちぢわ】に移るに際して,安富泰治は同年閏2月17日宿直警固のために馳参じ,野井城(現愛野町)・杉峰城(現瑞穂町)での合戦に参戦,さらに同年3月2日に氏連が神代を通った時,西郷次郎の松尾での襲撃を撃退するなどの軍忠をとげている(同前/南北朝遺3363)。また応安6年9月日深堀時広軍忠状(深堀文書/佐賀県史料集成4)によれば,高来郡の敵方掃討の軍旅に馳参じた深堀時広は同年3月1日,伊佐早の陣に参じて宇木城(現諫早市)攻めに軍功をとげ,同年7月7日には神代大隈の陣に参じて宿直警固をなしたことが知られる。神代は島原半島北部における1つの重要な軍事的拠点であったと思われる。一方,熊本県玉名市石貫の広福寺の開基として著名な大智禅師の正平21年12月9日譲状(広福寺文書/南北朝遺4563)によれば,大智はこのとき禅古上人に「肥前国高来東郷神代村内本覚禅寺」以下3か寺を譲っている。本覚寺に関しては,年未詳7月16日兵庫助光信書状に「本学寺之間事」と見え,正平19年2月23日大智契状には「神代の如法道場」とある(同前/南北朝遺4526)。現在,本覚寺は廃寺となり,国見町神代山ノ上にその痕跡を残すのみであるが(国見町郷土誌),この地域の宗教受容のあり方を指し示すのみならず,曹洞禅の地方における展開のしかた,肥後菊池氏と島原半島との関係などを考える上でもみのがせないものがある。戦国期には,竜造寺・島津・有馬氏らの抗争の舞台の一角をなした。年未詳2月6日有馬仙岩・同義直連署書状写に「神代表之義,今日六日東目各着陣候」と見え,年未詳6月2日有馬仙岩・同義直・同義純連署書状写には「神代要害,一両日中一行可取成候」と見える(福田文書/中世九州社会史の研究)。元亀3年と考えられる欠年4月24日鶴田勝書状には「神代山」が見えている(鶴田文書/大日料10-9)。天正年間島原半島制圧をめざす竜造寺氏と,これを阻止しようとする有馬・島津氏との間で戦いが行われた。神代城主神代氏は竜造寺方につき,天正12年3月24日に竜造寺隆信が討たれた後も抵抗を続けていた。島津家の重臣上井覚兼の「上井覚兼日記」によると,同年3月29日,覚兼と伊集院忠棟は神代城攻略のため有馬渡海を命ぜられ,同年4月3日,海路神代以下の諸城を偵察し,同5日に神代城は降伏した。同7日,覚兼と忠棟は神代城を検分し,この日種子島久時が神代へ来着した。同22日,覚兼の陣で諸将が談合し,神代以下の地を有馬晴信に与えることが決まった(大日本古記録)。一方,フロイスは神代城について1584年(天正12年)の記事の中で,有馬の先半里の所に有家,その先1里に堂崎城,その先に深江城,島原城があり,「そこから先には,かつて有馬領であった三会・多比良【たいら】・神代,その他の諸城が続いている」と述べ(フロイス日本史10),1587年(天正15年)の記事には,「有馬殿の領地である高来の地には,その地の果てに神代殿と称する一城主がいる。その城は当地方での高来の鍵ともいうべき存在で,幾年も前から伊佐早と結合し彼と同盟関係にあった。このように(神代殿)は伊佐早に従っていたが,その城が堅固な要所にあったために,有馬殿は同城を必要としながらも決してそれを攻略することができなかった」としている(同前11)。しかし,伊佐早は豊臣秀吉の勘気を被り城と領地を没収され,それらは竜造寺家晴に授与された。伊佐早は旧領奪回のため晴信に臣従を誓ってその援助を得,家晴の出陣中に伊佐早城を攻略した。その機に乗じて突如晴信が神代城を襲ったので城主は降伏し,晴信はこの城と伊佐早城を持つことによって,竜造寺方に対して堅固な防備を得ることになった(フロイス日本史11,1587年の日本年報/イエズス会日本年報下)。神代殿(神代貴茂)は有馬の支配下に入ってから,イエズス会副管区長に説教師を派遣するよう求めた。秀吉のバテレン追放令の翌年,モーラ神父が神代城に赴くと,説教を聞いた城主と家族,そのほかに仏僧全員,重だった人々150人が受洗し,1588年(天正16年)夏までにはほとんど異教徒がいなくなった。城主の妻は島原殿(島原純茂)の娘で,二十数年前,2,3歳でアルメイダ修道士から洗礼を受けていた(フロイス日本史11)。晴信は三会・島原両城を奪還,神代城を占領したことによって竜造寺政家の侵入を防ぐことはできたが,彼の敵が関白の特許状を手に入れ,三会と島原の地の半ば,および神代の全収入と城を入手しようとしたので,秀吉の側近の浅野弾正に銀子を贈って執成しを依頼し,自領の鍵とも見なされるべき神代城については,もし自分のものとして残されるならば2,000クルザート(銀16~17貫)を贈る旨,一札も入れていた(同前)。なお,その後近世に入ると,天正15年秀吉の九州仕置によって神代の地は鍋島氏(佐賀藩)の支配に属し,慶長13年からは佐賀初代藩主鍋島直茂の兄信房が鹿島から移って神代鍋島氏を称し,「寛永5年惣着到」で物成(地米)高2,205石,知行高4,410石を領した。同氏の家格は佐賀本藩家老,230名余の陪臣団を抱え,知行地の徴税権だけでなく裁判権をも認められ,本藩から半独立の体制を保持していた。そのため地元では神代分藩とも呼んでいる。本辞典では佐賀藩神代領と表記するが,高来郡内におけるこの佐賀藩神代領は西神代村(西村)・東神代村(東村)・伊古村・古部村の4か村からなり,これらは神代郷とも総称された。鶴亀城址下の小路に神代鍋島氏の館があり,その周辺には家老帆足氏以下上級陪臣層の屋敷が並んで小城下町の景観をなした。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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