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彼杵郡


江戸期の当郡は,大村藩領が大半を占め,ほかに佐賀藩領(諫早【いさはや】領・深堀領)・平戸藩領・幕府領があった。大村藩領は天正15年の太閤秀吉の朱印状により,近世所領として安堵された。慶長17年に実施された第2回目の検地高2万7,973石余をもって高直しが行われ,以降朱印高が確定した。大村藩の所領は,元和3年の朱印状によれば,大村・郡・萱瀬・鈴田・三浦・江串・千綿・彼杵・川棚・波佐見・宮・伊木力・佐瀬・長与・高田・時津・滑石【なめし】・浦上西・浦上北・浦上家野・浦上古場・戸町・日並・西海・長浦・形上・大串・八木原・川内浦・横瀬浦・面高・天久保・大田和・中浦・多比良・瀬戸・雪浦・神浦・黒崎・三重・陌苅・式見・福田・大島・嘉喜浦・松島・江島・平島の48か村,高2万7,973石余。「寛文朱印留」でも同じ。これらの村は,地方【じかん】(東彼杵郡),向地【むかいじ】(西彼杵半島基底部),内海【うちめ】(西彼杵半島内側),外海【そとめ】(西彼杵半島外側および大島・嘉喜浦・松島・江島・平島の5島)の4地区に大別されて管轄された。地方地区は大村・郡・萱瀬・鈴田・三浦・江串・千綿・彼杵・川棚・波佐見・宮の11か村,向地地区は伊木力・佐瀬・長与・高田・時津・滑石・浦上西・浦上北・浦上家野・浦上古場・戸町の11か村,内海地区は日並・西海・長浦・形上・大串・八木原・川内浦・横瀬浦の8か村,外海地区は面高・天久保・大田和・中浦・多比良・瀬戸・雪浦・神浦・黒崎・三重・陌苅・式見・福田・大島・嘉喜浦・松島・江島・平島の18か村からなる。ただし,その後分村が行われ,地方地区では郡村が竹松・福重・松原の3か村に,波佐見村が上波佐見・下波佐見の両村に分かれ,内海地区では大串村が三町分・下岳・亀浦・中山・宮浦・白似田の6か村に分かれ,また西海村が村松・子々川の2か村を,長浦村が戸根村を,形上村が尾戸・小口の2か村を,八木原村が小迎村を,川内浦村が伊ノ浦・畠下浦の2か村をそれぞれ分村し,外海地区では天久保村が黒口村を,多比良【たいら】村が七ツ釜浦村を,大島村が黒瀬村を,嘉喜浦村が崎戸浦村を分村した。こうして地方地区は11か村から14か村に,内海地区は8か村から21か村に,外海地区は18か村から22か村に増加し(向地地区は変わらず),合わせて68か村になった。こうして朱印状など公式には48か村であったが,実際には大村藩領内では68か村が郷村支配の行政区画であった。なお,向地地区の戸町村は安政4年に収公されて幕府領になり,翌5年代地として高来郡古賀村が与えられた。郡内南部に位置する幕府領長崎は,本来大村氏の所領で,元亀元年にキリシタン大名大村純忠により南蛮貿易港として開港された。その後,天正8年純忠によりイエズス会に寄進されたが,同16年秀吉によって没収され,その直轄地となった。江戸期に入り,江戸幕府に受け継がれ幕府領となる。寛永年間に出された幕府による鎖国令によって,日本唯一の外国(オランダ・中国)に開かれた港として栄えた。また郡内北部に位置する平戸藩領の村々は,平戸島に居城を構えた松浦氏所領の最南部にあたる。中でも崎針尾島は中世末期まで大村氏領であったがのち松浦氏が奪取した。大村純忠の女が平戸松浦家に嫁いだ際,化粧田として追認したため,平戸藩領となった。当郡内の平戸藩領は,「慶長9年惣目録」では佐世保村・日宇村・早岐村・針尾村・指方村の5か村,高合計6,658石余,「寛文朱印留」では同じく5か村で高6,270石。郡内中央部の佐賀藩領は諫早領と深堀領からなる。ともに佐賀藩の重臣で,諫早氏と深堀鍋島氏が治めた地。諫早氏の始祖は竜造寺家晴であり,本来柳川に居城を構えた。それまで太閤秀吉の島津征討の際,秀吉の怒りをかって領地没収の憂き目にあったものの,のち高来・彼杵両郡にまたがる諫早の地の統治を許され,中世以来の諫早領主西郷氏を滅ぼして入部した。その後諫早氏と改姓。諫早領の中でも彼杵郡内の村々は,所領の最西部に位置する。深堀氏は,鎌倉期に長崎半島の地頭として入部し,戦国期まで長崎半島に確固たる支配権を有していたが,戦国末期の動乱の脅威にさらされ,天正16年豊臣秀吉に所領を没収された。その後長崎代官になった鍋島直茂について文禄・慶長の役に参戦し,佐賀藩の重臣に取り立てられたもので,佐賀本藩の家老を勤め,鍋島氏に改姓した。当郡内の佐賀藩領は,「寛文朱印留」によれば,矢上町・喜々津・井樋尾・伊岐力・大草・深堀・小嘉倉・戸町・土井頚・竿浦・平山・蚊焼・大籠・島・三重の15か村,高2,109石余。このうち諫早領は矢上町・喜々津・井樋尾・伊岐力・大草の5か村,深堀領は深堀・小嘉倉・戸町・土井頚・竿浦・平山・蚊焼・大籠・島・三重の10か村(享和3年肥前国郡村仮名附帳)。当郡の村々と総高は,「元禄郷帳」では,矢上町・喜々津・井樋尾・井岐力・大草・深堀・小嘉倉・戸町・土井頚・竿浦・平山・蚊焼・大籠・島・三重・長崎・馬場・西山・小島・伊良林・木場・十善寺・片淵・高野平・岩原・山里・家野・淵・平野・馬籠・平戸小屋・木鉢・岡・本原・竹久保・船津・野母・高浜・大村・宝庫野・郡・萱瀬・鈴田・三浦・江串・千綿・彼杵・河棚・波佐見・宮・伊岐力・佐瀬・長与・幸田・時津・滑石・浦上西・浦上北・浦上家野・浦上古場・戸町・日並・西海・長浦・形上・大串・八木原・河内浦・横瀬浦・面高・天窪・大多和・中浦・多比良・瀬戸・雪浦・神浦・黒崎・三重・陌苅平・式見・福田・大島・加喜浦・松島・江島・平島・鹿ノ丸・野岳・佐世保・日宇・早岐・針尾・指方・山中・横尾・小佐世保・庵之浦・福石・大野・広田・折尾瀬・今福・吉福・横手・江上・有福の107か村。「天保郷帳」では,これに鳥加村(大串村枝郷)・戸根村(長浦村枝郷)・鹿川村(西海村枝郷)の3か村が加えられ,また馬場・西山・小島・伊良林・木場・十善寺・片淵・高野平・岩原の9か村が長崎村に入れられ,山里・家野・淵・平野・馬籠・平戸小屋・木鉢・岡・本原・竹久保・船津の11か村が浦上村にまとめられ,合計91か村,高5万2,988石余とある。「旧高旧領」では,幕府領5,898石余,村数6(長崎・浦上村山里・浦上村淵・戸町・野母・高浜),佐賀藩領2,413石余,村数6(矢上・喜々津・大草・本村〈深堀本村〉・小ケ倉・黒崎),大村藩領5万9,591石余,村数37(大村・茅瀬・鈴田・三浦・千綿・彼杵・川棚・上波佐見・下波佐見・宮・伊木力・長与・時津・浦上・長浦・大串・川内・横瀬・面高・多比良・瀬戸・雪浦・神浦・三重・式見・福田・松島・平島・竹松・福重・松原・七ツ釜・黒瀬・崎戸・下岳・亀浦・村松),平戸藩領1万4,661石余,村数7(佐世保・日宇・早岐里・折尾瀬・広田・江上・崎針尾)。幕府領分は明治元年長崎府を経て,同2年長崎県に属す。大名領分は同4年7月それぞれ平戸県・佐賀県・大村県となり,平戸県・大村県は同年11月長崎県に所属するが,佐賀県分は同月伊万里県となり,翌5年長崎県に所属する。同11年郡区町村編制法により長崎区・東彼杵郡・西彼杵郡に分かれる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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