値嘉島(古代)

奈良期から見える地名。肥前国松浦郡のうち。知賀島・血鹿島とも書く。古くは平戸島・五島列島を含めた総称と考えられる。「古事記」上巻に,イザナギ尊・イザナミ尊が大八島国を生み終わった後に,吉備児島・小豆島・大島・女島を生み,「次に知訶島を生みき。亦の名は天之忍男と謂ふ」とある。「先代旧事本紀」陰陽本紀にも同様の記載が見える。ここに見える知訶島は五島列島にあたる。「肥前国風土記」松浦郡条には,この島は遠くにあるが近くに見えるとして景行天皇が近島と名づけたという説話が記されている(古典文学大系)。「延喜式」陰陽寮儺祭条の詞では,疫鬼の住むべからざる日本の四方堺として,「西方遠値嘉」とあり,日本の最西端の地と意識されている。「日本書紀」敏達天皇12年是歳条には,日羅とともに来日した百済の使が帰国に際して日羅の暗殺を計画し「参官等遂発途血鹿」とある。貞観5年11月13日円珍奏状・同8年5月29日太政官牒(園城寺文書/平遺4492・4494)および延喜2年10月20日の奥書をもつ智証大師伝(続群8下)は,入唐する円珍を乗せた唐商船が大宰府を出発して値嘉島の鳴浦に停泊したことを記している。また,「三代実録」貞観18年3月9日条に「加之地居海中境隣異俗。大唐新羅人来者。本朝入唐使等。莫不経歴此島」とあって,この島を通って大陸との往来がなされていたことがわかる。当島の付近は312年間,遣新羅使の航路となっていた。遣唐使の場合は,当初北路を通ることが多かったが,新羅との関係が悪化した後は南島路・南路を使用するようになる。南路は,博多大津を出て値嘉島の諸島で順風を待って一気に東シナ海を横断する航路で,帰路は逆に値嘉島を目指して東シナ海を横断するのである。「万葉集」巻5に山上憶良が天平5年の遣唐大使多治比広成に贈った「好去好来の歌」が載せられているが,その中に「あちかをし値嘉の岬より大伴の御津の浜辺に直泊てに御船は泊てむ」と見え,遣唐使の航路としてこの島が経由されていたことがわかる(古典文学大系)。藤原葛野麻呂を大使とする第16次遣唐使は「日本後紀」延暦24年6月乙巳(8日)条によれば同23年7月6日に「松浦郡田浦」から出発し,同24年6月甲寅(17日)条に「松浦郡(血)鹿島」に来到したことが見える。また,同年7月癸未(16日)条に第3船も7月4日に「松浦郡庇良島」から「遠値嘉島」を目指して出航したことが見える。遠値嘉島・等保値駕島は福江島を中心とする諸島を指すと考えられる(五島編年史・地名辞書)。さらに,大使藤原常嗣,副使小野篁の第17次遣唐使は,「続日本後紀」承和3年7月壬午(15日)条によると同2日に4船ともに出航したが,同甲申(17日)条によれば風雨によって遭難し,そのうちの第2・第3船が「値嘉島涯畔」に着岸できる所を探している。そして承和4年7月癸未(22日)条によると3船編成で再度出航したがまた漂流し,第2船は値嘉島に漂着している。結局,第17次遣唐使は承和5年7月に進発し,同6年8月に帰朝した。値嘉島は,このような正式の使に関する以外の記事にも登場する。「日本書紀」天武天皇6年5月戊辰(7日)条には「新羅人阿飡朴刺破従人三口。僧三人漂着於血鹿島」と見える。「日本紀略」弘仁4年3月辛未(18日)条によると,同年2月9日新羅人が「小近島」に着き「与土民相戦。即打殺九人。捕獲一百一人者」という事件があったことが報告されている。さらに,前述の貞観18年3月9日の記事の中には「去貞観十一年。新羅人掠奪貢船絹綿等日。其賊同経件島来」ことや「唐人等必先致件島。多採香薬。以加貢物」「又其海浜多奇石。或鍛練得銀。或琢磨似玉。唐人等好取其石」ということが記されている。この地域が大陸と深いかかわりを有することがわかる。一方,天平12年9月に九州諸国の兵を動員して反乱を起こした大宰少弐藤原広嗣は,「続日本紀」同年11月戊子(5日)条によると,追討軍に敗れた後外国へ逃れようとして海路耽羅島(済州島)付近まで達したが,東風に吹き戻され「等保値嘉島色都島」に着いたとある。この色都島の詳細は不明であるが,「五島編年史」は祝言島かとしている。広嗣は,同年11月丙戌(3日)条によると,10月23日値賀島長野村で逮捕された。その他,「日本書紀」天武天皇4年4月辛卯(18日)条によると,三位麻続王が罪を犯して因幡へ流罪となった際,その子の1人が「血鹿島」へ配流となっている。このように,値嘉島は大陸や朝鮮半島との海上交通上,あるいは罪人の配流地として早くから中央に知られた島であった。なお,「後拾遺和歌集」に道信朝臣の作として「近浦に浪寄せ掛るこゝちして干間無ても暮しつる哉」とあり(太宰管内志),大治3年9月28日の「住吉歌合」には「藻汐草かき散らすよりちかの浦の玉つ島守みるめ恥かし」と詠まれ(群書12),「重之集」には「名を頼みちかの島へとこきくれはけふも舟ちに暮ぬへき哉」「白雲のかゝれる峰をみ渡せはちかのしまにはあらぬ成へし」と見え(同前14),「夫木和歌抄」には後一条入道関白の歌として「面影のさきだつ月に音をそへて別れはちかの島ぞかなしき」が載せられている(校注国歌大系22)。また,「入唐五家伝」には,廃太子後出家した平城天皇皇子高岳親王が,貞観4年に入唐し,さらに西方へ向かった後,親王と別れて帰国した人々が値嘉島に着いたことが記されている(続群8上)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7448688 |