日見村(近世)

江戸期~明治22年の村名。高来郡のうち。「元禄郷帳」には「古は町村」と見える。はじめ日野江城主有馬氏領,のち幕府領,元和2年島原藩領,寛文8年幕府領,享保5年幕府領島原藩預り地を経て,明和5年からは幕府領長崎代官支配地。村高は「正保国絵図」249石余(うち町村115石余・船津村134石余),「天保郷帳」265石余,「旧高旧領」270石余。なお,町村は日見本郷のこと,船津村は枝郷で,のち網場名と呼ばれた。文政4年の肥前国高来郡長崎往還日見宿人馬賃増方之儀伺書によれば,家数287・人数1,943,うち枝郷網場名の漁師家数128・人数727(金井八郎翁備考録1/県立長崎図書館)。安政4年の御代官諸伺附札留では,惣家数287,うち本郷分120・網場名分167(長崎代官記録集)。長崎代官支配下の村政は,庄屋1・年寄2(うち網場名1)・百姓代2・問屋1によって担われ,村内は本村と網場名に分けられていた。庄屋職は井手口家が世襲していたが,寛政年間頃京都商人の債務保証をしたことによって困窮し,庄屋役付田畑の一部を質入れした。のち長崎の商人の伜を2代にわたって養子に取り庄屋役を継がせていたが,町方出身で地方不案内なため村内百姓の不満があり,天保年間頃年貢銀未納という事態に至って長崎代官は庄屋を退役させ,その実子を庄屋見習,茂木村庄屋を後見とし,長崎村庄屋に取締懸りを申し付けた(同前)。安政年間頃の庄屋は本多官兵衛,伜の庄屋見習倉之助は抜荷取締加役も勤めていたが,役目に落度があり不届として入牢,追放に処せられた(犯科帳)。のち維新前は野上氏が勤めた(輝く日見村の姿)。網場には浦見番が2名配置され,5両2人扶持を給されていた。天保3年の御用留に野上戌之助・橋爪七右衛門の名が見える(長崎代官記録集)。また本村日見宿は難所日見峠を控えて人馬継立の用務が多く,宿役が村民(網場漁師を除く)の過重な負担となっていた。「長崎代官記録集」によれば,宿役勤の人数145・馬口付20・馬20疋で,長崎のすぐ東隣にあって宿泊客がないため宿場としてのにぎわいも収益もなく,村民は宿役の負担に困窮するのみであった。そのためたびたび人馬賃銭増方の嘆願に及んでいる。なお,日見峠には幕末維新の混乱期(文久3年~明治2年)に関所が置かれ,島原藩が警備に当たった。鎮守は天満神社で,寛永3年松倉重政の勧請・建立と伝えられる。ほかに河内・住吉・八坂の3社がある。河内・住吉の両神社は,天正年間の長崎・深堀両氏の戦いの死者を祀るという。日見山養国寺は,長崎大音寺の開山伝誉上人が松倉重政の勧請を受けキリシタン対策として日見・茂木両村を布教した結果,寛永10年に一寺を創立し,弟子嶺山を住持としたのがはじまりである(長崎市史仏寺部)。宗派は浄土宗で,村民のほとんどは同寺の檀家。宿の日見観音寺は黄檗宗聖福寺の末寺で,長崎からの参詣が多かったと伝えられるが,いつの頃からか廃寺となり,千手観音の堂が残った。明治元年長崎府を経て,同2年長崎県に所属。同11年西彼杵【にしそのぎ】郡に属す。明治8年の「長崎県地理図誌」には田21町2反余・畑34町6反余,戸数496・人口2,178,うち男1,110・女1,068。同14年日見新道会社による新道開削工事が始まり,翌年開通した。当時としては珍しい有料道路で,同22年まで1人1銭・牛馬5厘が徴収され,工費償却に充てられた(明治維新以後の長崎)。「郡村誌」によれば,村の幅員は東西16町40間・南北26町10間,地勢は「西南北ノ三面ハ地勢一般高ク,東方海ニ瀕スル所較ヤ低平ナリ,中央ニ日見・中河原ノ二水アリト雖モ,共ニ小流ニシテ全村ヲ沽スニ足ラズ,且中央ニ国道一線ヲ通ズレドモ屈曲迂延ニシテ,運輸ヲ助クルニ足ルナシ,然リト雖モ旅客ノ往復ヤゝ頻繁ニシテ,薪炭ノ如キ両ナガラ乏シカラズ」,地味は「其色赤,其質軽墳間々砂石ヲ交エ,稲粱ニアシク桑茶ヤゝ適ス,水利ヤゝ便,然レドモ水旱損共ニ屡有之云」とあり,村内は宿名・河内名・界名・網場名に分かれ,税地は田21町余・畑34町余・宅地1反余の合計55町余,改正反別は田31町余・畑73町余・宅地6町余・山林210町余・秣場50町余・物置場8歩・網干場1反余・藪40町余・草生地9反余・原野35町余の合計450町余,地租は米119石余・金75円余,賦金は45円,国税金59円,改正租金656円余,戸数は本籍491・社4・寺1の合計496,人口は男970・女994の合計1,964,牛30・馬25,船98(50石未満漁船),人力車10。また,神社は天満神社が鎮座し,寺院は浄土宗日見山養国寺があり,古跡として日見関址をあげ,民業は農業250戸・漁業156戸・商業80戸・雑業16戸,物産は米467石余・大麦585石余・小麦65石・大豆6石余・甘薯104万斤・薪37万5,000斤・木炭1,500斤・茶1,200斤・独活1万2,000本・枇杷1,750斤・櫨実5,500斤・柿15万5,000顆・鰈45尾・鰺800尾・ハモ魚3,500尾・小鯛5,100尾・伊勢海老300尾・鰤300尾・蟹600杯・グチ魚7,500尾・コノシロ魚6,000尾・海鼠20石・烏賊1,000杯・小鰛45石・雑魚50石で,このうち独活1万1,000本・枇杷1,500斤・柿10万5,000顆・鰈35尾・鰺500尾・ハモ魚3,200尾・小鯛4,000尾・伊勢海老200尾・鰤270尾・蟹400杯・海鼠18石・烏賊800杯を長崎区に,コノシロ魚5,000尾・小鰛40石・雑魚30石を長崎区・矢上村に,櫨実すべてとグチ魚4,500尾を矢上村に輸出すると記される。明治19年宿名の民家に簡易日見小学校が創立。同22年市制町村制施行による日見村となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7449172 |