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宮村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。彼杵郡のうち。宮ノ村とも記される(元禄郷帳・天保郷帳)。大村藩領。地方【じかん】地区に属す。村高は,慶長17年検地による朱印高744石余(大村郷村記),「天保郷帳」946石余,文久2年内検高2,119石余,うち田高1,983石余・畠高135石余(大村郷村記),「旧高旧領」2,229石余。村内は久津・長畠・奥山・萩坂・瀬道・上間(城間)・小島に分かれる(大村郷村記)。北部の瀬道郷字舳ノ峰に関所があった。舳ノ峰番所といい,早岐往還が大村から早岐【はいき】へ通じる宮村の出口にあり,大村藩と平戸藩の境界であった(郡村誌)。字寺辺田に真宗崇聖山正蓮寺があり,専念山正法寺の末寺で,阿弥陀如来木座像は永正5年作の銘文がある。この阿弥陀如来像は,天正年間キリスト教徒蜂起の時に同寺が焼亡した際,火中より救われて平戸藩領浦の川内に隠し,鎮静後に帰座したという。同寺は,天和年間に再建され,正保元年現在地に移転。開基竜正はキリシタン禁制の最中に当村へ来村,村人悉く真宗に帰依し,領主大村純頼が寺地を寄進して建立したと伝える。鎮守は宇都宮大明神で,創始は不明だが,一説に下総国宇都宮孫三郎の末葉が当村に来て地頭となり,先祖を氏神に定めたともいう。天正年間キリスト教徒蜂起の時に焼亡したが,慶長年間および元禄年間に再建されたと伝えられる。「大村郷村記」によれば,文久2年の村況は,東西1里10町・南北25町,広さ1,380町,うち田地167町余・畠地76町余(うち切畠23町余)・塩浜8反余・山林野1,135町余,内検高の内訳は蔵入地839石余・浮地422石余・請地53石余・新地93石余・私領707石余・水主地1石余,年貢上納は米1,598俵余・小麦63俵余・塩46俵余・銀86匁余,竈数519,うち大給16・小給48・大工木挽左官3・間医2・間人31・山伏1・釜司1・本百姓93・間百姓81・釜百姓4・私領179・請地家来14・浦百姓46,人数2,556(男1,347・女1,209),宗旨別内訳は法華宗389・浄土宗9・真言宗56・真宗2,102,牛327・馬14,運上を納める諸職業の軒数は糀場6・酒場1・質屋株1・綿屋株1・鍛冶屋株4・染屋株4・瓦屋株5・豆腐屋株1・油締株1・水車4・揚酒株1・蝋締株1,販売商品として楊梅・柿・茶・七島畳・菜種子・多葉粉・塩菰・鰯網縄・織木綿をあげ,村内には久津浦・佐々の浦があり,船数42,寺院は真宗正蓮寺・真言宗修験般若院,神社は宇都宮大明神・高野権現・谷山権現・天満宮・貴船大明神・道祖神・恵美須・弁財天・稲荷大明神,堂宇は妙見菩薩・薬師如来・聖観音・十一面観世音があると記される。また文化6年創設の狼煙場のほか,小峰の古城址,館屋敷址,葛の峠古戦場址,長競石などがあり,貝石という貝の化石を産出するともある。なお,館屋敷は旧地頭宮村能登守通貞の居館で,堀切の址が残り,長競石は,宮村守貞の嫡男悪四郎が,17歳の時自らの長身を後世に残すため建立したものと伝える。明治4年大村県を経て長崎県に所属。同11年東彼杵郡に属す。「郡村誌」によれば,村の幅員は東西1里10町余・南北約33町,地勢は「東ハ舞山ヨリ左旋シ宇土山ニ連ナリ高ク聳エテ背トナス,漸ク南シテ低ク峰巒相重ル,又東ヨリ北ニ亘リ山脈漸ク伏シテ又突起シ本城山等相連ル,西方一面海ヲ控ク,運輸便利,薪足リ炭乏シ」,地味は「其色黄壌,其地粘土,其質中,稲粱ニ宜ク豆麦ニ適ス,水脈薄ク旱ニ苦ム」とあり,村内は久津郷・長畑郷・奥山郷・萩坂郷・瀬道郷・城間郷・小島郷に分かれ,税地は田177町・畑78町・原野61町・山林27町の合計343町,改正反別は田276町・畑277町・宅地25町・山林155町・原野169町の合計902町,地租は米686石余・小麦15石・塩11石・金18円,国税金は45円,改正租金は3,212円,戸数は本籍531・社1(村社)・寺1の合計533,人口は男1,302・女1,240の合計2,542,牛305・馬86,船77(50石以上2・50石未満漁船75)。また,学校は城間郷に宮村小学校が設置され,生徒数は男119・女13,神社は村社の宇都宮神社が鎮座し,寺院は真宗東派崇聖山正蓮寺があり,古跡として長畑郷に城山城跡,瀬道郷に古関跡が残り,民業は農業402戸・商業40戸・工業35戸・漁業48戸,物産は米1,793石・麦673石・大豆91石,うち米793石は長崎や南松浦郡に輸出すると記される。明治22年市制町村制施行による宮村となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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