100辞書・辞典一括検索

JLogos

30

阿蘇郡


天正15年の豊臣秀吉による九州平定後,肥後国は佐々成政の支配下とされたが,国衆一揆によって成政は失脚し,同16年加藤氏の領有下に入り,熊本藩領となった。天正16年の当郡の検地は,秀吉の上使衆のうち戸田民部・黒田勘解由・森(毛利)壱岐守の3人が担当した。相良統俊肥後国検地覚書(成恒文書)によると,当郡の検地面積は3,000町。慶長国絵図(永青文庫)では,高5万4,628石余,反別は田2,485町余・畠4,550町余。村数・高は,「天保郷帳」84か村・高5万9,895石余,「旧高旧領」214か村・高7万2,800石余。寛永年間頃の高6万6,591石余,野開畠(先代開分)1,060町余,家数1万3,887うち寺家137・社家78・百姓家1万3,672,人数2万772うち職人53・町人商人63・牢人244など,牛5,507・馬3,981,産物は川海苔・鹿・猪・山鳥・松茸・渋柿・茶・漆など(肥後読史総覧)。諸御郡高人畜浦々船数其外品々有物帳(永青文庫)によると,元禄7年の高6万6,844石余,新地開4,629石余,田畑野開4,613町余,家数1万8,738・人数5万177,牛馬1万8,681。御国中田畑畝高物成一紙(西園寺文書)では,豊後国直入【なおいり】郡久住村(現大分県久住町)を含む文化14年の高7万6,757石余,新地5,812石余,諸開5,052町余,竈数1万1,606・人数4万8,409,牛馬2万5,194。寛永9年細川氏が藩主となってのち,手永制が実施され,当郡には布田(もと鳥子)・高森・菅尾・野尻・内牧・坂梨・北里・馬場(もと下城)の8手永があり,のち馬場手永は北里手永のうちに編入された。実高の伸びに対して新地・諸開の伸びが著しく,新地は新地村立(村高新地)と呼ばれ,阿蘇谷に多く,村を構成して高を負担したのは内牧手永永草村・乙姫村・宇土村・駄原村・宮原村・黒流村・新所村の7か村,坂梨手永塩塚村の1か村があった。また当郡内の諸開は熊本藩全体の諸開の35%を占める。新地・諸開は多くの人口を支えることができた。人口は,天保13年4万6,238(肥後読史総覧),安政4年5万2,044(内牧手永増補略手鑑/阿蘇町立図書館蔵文書)。江戸前期までに激増した人口が中期以後一時減少しているのは,阿蘇山の墳煙による農作物の被害から飢饉が発生した影響が考えられる。天明3年当地を訪れた古川古松軒は「西遊雑記」(庶民史料2)に,阿蘇郡は広大であるが原野が多く,開田すれば10余万石ともなる平地がありながら,「人のなき故に古田も年々にあれ果るといひき。近年うち続き凶年にて飢死せしもの数多有りしといふ」などと飢饉に見舞われた当郡の様子を記している。また同書には,この4年以来地響きとともに火山灰が降り,山に近い所の村々の牛馬は火山灰のかかった草を食べたため皆死んだといわれると記し,阿蘇山の噴煙のもたらす被害を伝えている。阿蘇郡の政治の中心は内牧城であり,加藤清正の時代には城代として加藤右馬允,慶長17年には加藤万兵衛が任じられたが,元和元年幕府の一国一城令により破却となった。細川氏の入国後は,阿蘇谷(内牧・坂梨の2手永),南郷(鳥子・高森・野尻・菅尾の4手永),小国・久住(北里・下城・久住の3手永)の3地域にそれぞれ郡奉行,のち郡代が置かれた。阿蘇郡は熊本藩の北東に突出し,他領と接するところから口屋番所が多く,御国中地侍御郡筒之御帳(藻塩草/県立図書館蔵文書)によれば,寛永12年の番所は,豊後街道に沿って坂梨口・大利口・通道・楢木野口・山が村・仁田水口・箱石口・観音寺坂口・黒瀬戸口・からきか大坂大道口の10口,南郷の豊後・日向国境に河原口・長野口・河路口・岩神口・椛山口・馬見原口の6口,小国道沿いに石嶺坂・平井坂・尾籠坂・木落坂・藤坂口・石引坂・長倉坂・甲石・七曲・北里口・うと口・黒淵口・しや口・杖立口の14口があり,414名の地侍・地筒が警備にあたっていた。宝暦年間の肥後国中寺社御家人名附(熊本近世史料叢書)によれば,在郷の知行取である阿蘇組財津氏など8家(坂梨番)をはじめ,一領一疋は内牧29人・坂梨15人・布田3人・高森8人・野尻4人・菅尾5人・小国10人の計74人が置かれた。この時期における当郡の一領一疋の分布は藩内で最も濃厚であるが,警備と開発の必要性から設置されたと考えられる。当郡に多い御赦免開は知行取・惣庄屋・一領一疋などにのみ許された免税開発権であり,阿蘇組の財津氏は坂梨・内牧に多くの開発地を有したほか,郡内の一領一疋は競って御赦免開を行った。なかには武士の名義を借りて開発も経営も農民が行う開発もあり,のち明治30年代に名義人と実際の開発経営者との間に永小作権をめぐる対立が生じる原因となった(阿蘇の永小作)。阿蘇郡の崇廟阿蘇神社は,慶長6年10月14日の加藤清正所領宛行黒印状(阿蘇文書/大日古13‐1)によると社領358石を寄進され,寛永10年正月7日の細川忠利判物(同前)によれば989石余が改めて寄進されており,貞享5年12月28日の細川綱利判物(同前)では新規に100石を加えられて社領は1,089石余となった。郡内には坂梨に国造神社,小国に両神社,高森に祇園社・矢村社,野尻に吉見社がそれぞれの手永の鎮守社として崇敬を受け,阿蘇神社ともかかわりをもって祀られてきた。寺院は阿蘇山上から山麓の坊中に移った衆徒・行者37坊のほか,天台宗4・真言宗2・禅宗10・浄土宗2・日蓮宗1・浄土真宗39の寺院がある。当郡の名産として,名物数望附(肥後読史総覧)には坂梨人参・小国干シ竹ノ子・南郷ノ熊膽・万願寺苔・露蘭松葉蘭・白十六寸・めのう・忠右衛門鴫・岩松の9種が記される。明治4年熊本県,同5年白川県を経て,同9年熊本県に所属。明治8年大区小区制下では,生活圏・交通網が上益城【かみましき】郡に近い白石村ほか11か村が上益城郡の第9大区に属し,同11年には同郡への編入願を出したが許可されなかった。明治10年県下の各郡で地租改正費などをめぐって,戸長や用掛を糾弾する農民一揆が発生し,特に当郡では激化して8,886人が参加し,8,571人が処罰された(高森町史)。同年の西南戦争では,熊本城攻略に失敗した薩摩軍の一隊が高森から草部南部を経て宮崎県高千穂方面へ出た。別に警察隊に追われた300余人の薩摩軍が大分県から,当郡波野村笹倉を経て,根子岳東麓を通り,上色見に一泊後戦闘を繰り返しながら黒川にそって激戦となり,多くの死傷者を出している(同前)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7449818