100辞書・辞典一括検索

JLogos

37

岡中村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。八代郡のうち。熊本藩領。村高は,「寛永郷帳」633石余,「正保郷帳」も同高でうち田562石余・畠70石余,「天保郷帳」も633石余,「旧高旧領」796石余。「肥後国誌」では種山手永に属し,高791石余,「里俗岡中野村と云」とあり,小村に平原村・野中村・行西村・山口村が見える。文化6年の宇土郡八代郡略手鑑によると,高791石余,土物成323石余,反別は田404反余・畑87反余(竜峰村史)。当地には建武年間名和氏家臣の在城以来,天正年間までの相良氏の居城岡城跡がある。城の形状は,西方は海,残る三方は堀で囲まれた島状で,陸地・街道とは橋梁でつながっていたと推測される。岡城主佐々木氏の勧請と伝える岡神社は天照大神ら7神を祀っているので七社さんとも称される。元禄年間に高良塚の地から現在地に移したものという(八代郡誌)。洪福寺(光福寺)跡の如意輪堂には室町後期作という本尊如意輪観音がある。堂の後方に板碑があるほか,堂の南に五輪塔が3基あり,菊池能運の供養塔と伝え,これを建翁斎といい,堂はケンポン堂と称される(肥後国誌)。ほかに地蔵の板碑が当地内にある。嘉応・承安年間に平重盛が建立したという臨済宗玉泉寺には石叟作の観音銅像,兆殿司筆の大幅涅槃像などがある。同寺開山は月山禅誉,36坊の大伽藍があったという。天正初年相良義陽が祈願所として荘田数町を寄付,小西行長の堂宇焼却の時,本尊諸仏のみ小池に隠して難を逃れたという。隣接地に延宝年間以来医者吉田家が住し,その敷地に板碑が数基ある。また宝暦年間以降種山手永の会所跡もある。行盛塚と称される小祠の小石碑に「行盛大神儀」の刻銘があり,左吉兵衛行盛が千丁村上土城主を裏切ったため,その家臣によってこの地で餅つき杵で殺害されたのを里人が埋葬したものと伝える。裏山の経ノ尾山に経塚がある。絶頂が常に崩れるので経を埋めて山崩れを防いだという。このふもとに相良氏家臣深水休甫の建設になるという宗方亭跡があったという。文化・文政年間惣庄屋平野角次の指揮による出夫は大牟田へ621,高島新地へ86,また同じく文政新地のための麓川用水路の開削により,北出村に2町2反を分与された(竜峰村史)。産物は米・麦・七島藺・柿・櫨・茶などで,天保13年の櫨木調べでは,畑2反4畝・本数370,野開茶畑1反余・本数370(同前)。天保15年以降私塾(習字塾)が開かれていた。熊本県,八代県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属。明治8年小学校を一時,玉泉寺に置く。明治16年の戸数63・人口411,民有耕作地面積654反余,同21年の戸数62・人口369,宅地原林野678反余(竜峰村史)。同22年竜峰村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7450596