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菊池(中世)


 鎌倉期から見える地名。菊池郡のうち。元亨元年3月3日の阿蘇社進納物注文写(阿蘇文書/大日古13‐2)に,「一,御たけにあかる初米」の1つとして「一所菊池」とある。南北朝期の建武2年12月30日菊池武敏・阿蘇惟直らが少弐氏の拠る大宰府を攻めたが,敗北した。同3年正月13日の安芸貞元宛の少弐頼尚書下(新編会津風土記所収梁瀬文書/南北朝遺387)に「新田右衛門佐義貞与同之仁菊池掃部助武敏,依寄来宰府,於中途童付,去年十二月卅日抽軍忠之上,引籠菊池山城之間,今月三日致合戦」と見え,菊池武敏は敗北後,「菊池山城」に立てこもっており,少弐勢がこれを攻撃している。また,これに関しては,建武5年4月18日の詫磨貞政軍忠状(詫摩文書/県史料中世5)に「一,建武三年正月八日,菊池山城之合戦之時,致軍忠追落候畢」とある。建武3年2月京都を逃れて九州に下った足利尊氏は,同年3月2日筑前多々良浜の戦に菊池武敏・阿蘇惟直らを破り,同3日御教書を各地に発して「菊池城」を攻撃した。これに関しては数通の軍忠状が残っている。2通の建武3年3月15日の青方高直軍忠状案(肥前青方文書/南北朝遺474・475)に「肥前国五島青方孫四郎藤原高直謹言上,就今月三日御教書,罷向菊池城,於搦手致合戦」,同年3月16日の中村栄永着到状(豊後広瀬文書/南北朝遺478)に「著到,松浦一族中村孫四郎入道栄永,今月十三日,為抽軍忠,馳向菊池城候」,同年3月26日の斑島渟軍忠状(肥前斑島文書/南北朝遺518)に「肥前国松浦斑島源六渟謹言上,就今月三日御教書,罷向菊池城,同十一日於搦手致合戦刻」,同年3月日の石志良覚軍忠状案(肥前石志文書/南北朝遺548)に「肥前国松浦石志五郎入道良覚謹言上,就今月三日御教書,罷向菊池城於搦手致合戦」,同年5月日の安恒定軍忠状案(肥前有浦文書/南北朝遺621)に「筑前国松浦一族安恒九郎四郎源定謹言上,就去三月三日御教書罷向菊池城,同十一日於搦手致合戦之刻」とあり,松浦党の諸氏が「菊池城」の搦手より攻撃したことが知られ,このうちの5通には仁木義長の証判がすえられている。同4年7月日の青方高直目安状案(肥前青方文書/南北朝遺1007)に「随而自 将軍家(足利尊氏)御下向最前,令一烈,同参当御一族之以来,菊池攻之時,高直被疵」,暦応2年12月5日の青方高直注進状案(同前/南北朝遺1441)に「一通 菊池・三原討手御教書〈建武三年三月三日〉一通 菊池山一見状〈自身被疵,建武三年三月十五日〉」,同3年5月日の橘薩摩一族軍忠状案(東京大学史料編纂所所蔵橘中村文書/南北朝遺1526)に「将軍家御下向于鎮西之時,武敏以下凶徒等楯籠菊池山城之間,為誅伐御発向之時,一族等属当御手,抽軍忠之刻」とも見える。なお建武3年卯月日の青方高直申状写(肥前青方家譜所収文書/南北朝遺597)によれば,「去月十一日菊池合戦恩賞」として「五島内西浦目半分〈峰源藤五定(貞)跡〉」を宛行うことを言上している。同年5月にも合戦があったとみえ,年月日未詳の小代光信軍忠状(詫摩文書/県史料中世5)に「一,(5月)廿日武敏以下凶徒等楯籠菊池大林寺之間,属于侍所佐竹与次(義尚)手,於新宝原令付著到畢」と見える。同年8月晦日菊池武敏と恵良惟澄が佐竹・仁木の軍と筑後国豊福原で戦うが,その後北朝方に攻め込まれたらしく,建武3年9月18日の小代重峰軍忠状(小代文書/県史料中世1)および同年9月日の小代吉宗軍忠状(同前)に「次今月三日,於当国菊池・寺尾野・盤闍久・虎口・穴河城寺,尋探御敵,自令破彼城等以来至于同十八日,於合志城令遂警固了」とあり,合志幸隆の証判がすえられている。またこれに関しては,暦応3年3月日の詫磨宗直軍忠状案(詫摩文書/県史料中世5)にも「一,同(建武3)年八月菊池渡山合戦之時,舎弟弥七郎〈致軍忠了〉・同親類次郎五郎等致軍忠訖」とある。その2年後,建武5年11月1日の石動資成軍忠状写(北肥戦誌2所収文書/南北朝遺1272)によれば,一色範氏(道猷)が筑後国を発向し,石動資成は「為退治菊池城,去二日就被差遣佐竹源蔵人(義尚)」とあり,佐竹の手勢として戦ったという。康永2年3~4月にも戦いがあり,同年3月29日の志賀頼房軍忠状(肥後志賀文書/南北朝遺1909)には「同(康永2年3月)廿七日,菊池城合戦之時,若党中条勘解由左衛門尉〈右ノ足被射疵〉之条,御勘文之状明白也」,同年7月日の田原正賢軍忠状写(大友家文書録/南北朝遺1951)にも「去四月十七日馳向肥後国菊池城,同廿一日・廿四日両度合戦之時,先懸攻寄城戸際,致散々合戦畢」と見える。康永3年菊池城は一色範氏のため落城し,合志幸隆が入るが,まもなく菊池武光が取り返したという(菊池市史)。その後正平3年と推定される年未詳2月15日付の五条頼元書状(阿蘇文書/大日古13-2)に「抑将軍宮(懐良親王)此間御逗留菊池」とあるように,この年正月懐良親王は宇土【うと】を発し,御船城を経て当地に入った。同年と推定される年未詳2月15日付の征西大将軍宮令旨写(同前)に「来廿七日為対治於凶徒,可有御発向筑後国,期日以前,必可被馳参菊池之由,依仰執達如件」とあり,当地を根拠地として北に進出しようとしている。また同年6月23日付の五条頼元書状写(同前)にも「宮御所(懐良親王)依御願事候,自去十二日御参籠吾平山候き,其間如斯次第不及御沙汰候,廿日菊池江還御候」,同年と推定される年未詳10月4日付の五条頼元令旨副状写(同前)にも「所語(詮カ)今度御敵下向当国事ハ,以菊池 御在所為大綱候」と見える。しかし再び菊池城は合志幸隆の占拠することとなったとみられ,正平4年10月頃と推定される後欠で年月日未詳の恵良惟澄申状追書写(同前/大日古13‐1)に「此外肥後国菊池本城,当時合志入替武士令楯籠,去十五日,武光令発向,追落外城焼払,打取凶徒廿余人了」とあり,合志幸隆の立てこもる「菊池本城」を攻めるため,菊池武光が外城を攻め落としている。また正平4年11月1日の征西大将軍宮令旨写(同前/大日古13‐2)にも「為対治菊池本陣,凶徒馳参之処,合志原合戦被致忠,并破却外城之時,軍忠之次第,殊所被感思食也」とあり,合志原・菊池外城における恵良惟澄・同弟惟雄の軍忠を賞している。翌年には,同5年3月20日の恵良惟澄軍忠状(同前/大日古13‐1)に「惟澄率日向国高知尾庄軍勢等,去十日馳越菊池,同十二日〈酉刻〉押寄凶徒合志能登守幸隆所楯籠之菊池陣城,始合戦,六ケ日夜致軍功畢」とあり,惟澄は日向国高知尾荘の軍勢を率いて当地に向かい,合志幸隆の立てこもる「菊池陣城」を攻撃している。一方,北朝側の活動を示すものとしては,観応3年12月日の足利直冬証判伊東氏祐軍忠状(伊東家古文書/日向古文書集成)に,観応2年の詫摩原の戦いについて,「詫摩原御合戦抽戦功,後板井原・水島・菊池御勢仕」とあり,翌文和2年2月日の平河貞家軍忠状(平河文書/県史料中世3)にも「同(文和2年)二月二日菊池後攻合戦之日致軍忠畢」などとあり,当地で戦ったことが記されている。なお正平8年12月5日の比丘尼慈春置文(広福寺文書/県史料中世1)に「一,てんかせいひつのゝちハ……しりやうたといきくちのうちたりといふとも,てらのしきちをハ,きくちとのにあんないをへて,たりやうにてらをたつへく候」とあり,天下静謐ののち,菊池殿に案内して他領に寺を建てるべきことを申し入れている。下って建徳元年今川了俊が九州探題に任命され,翌2年12月豊前の門司に上陸,翌文中元年8月大宰府を攻め落とした。同2年11月16日には南朝方の柱であった菊池武光が没している。こうして,当地周辺は再び戦場となった。永和元年と推定される年未詳5月21日の今川了俊書状写(阿蘇文書/大日古13‐2)には「南郡をも又菊池口をもならへて,さたし候やうに可相計候」とあり,了俊は阿蘇惟村に対し当地などの軍策を依頼し,出兵を促している。同年と推定される年未詳6月7日付の今川了俊書状写(同前)には「此次ニ当陳勢を分候て,菊池口并河尻辺に陳をとるへく候間」と見え,惟村に対し,赤山城を落とし,これから当地に軍を進めることと,惟村の着陣を待つ旨を伝えている。同年と推定される年未詳7月13日付の今川了俊書状写(同前)には,「十三日〈卯時〉菊池口水島原ニ陳を取候了,於今者菊池勢一人も不可出候」とあり,了俊は当地に陣して,これから肥後南郡に兵を向けることを阿蘇惟村に伝えており,了俊は徐々に南下しながら,惟村と連絡をとっていた。これに呼応して,永和元年10月16日の平河師頼軍忠状(永池文書/県史料中世3)に「就中去八月十二日馳参肥後国水島御陣,於菊池近陣(ママ)目野岳以下所々抽忠節」とあり,相良前頼と同心した平河師頼が今川了俊に味方し,当地などを転戦したことが記され,今川了俊の証判がすえられている。2年後にも戦いがあり,同3年9月日の松浦大島隼人允政軍忠状(来島文書/長崎県史古代中世編)に「去六月……板井・合志・菊池以下御勢使并隈本城攻御陣」とある。その2年後の康暦元年には今川仲秋が当地付近に攻め込み,同年と推定される年未詳7月17日付の今川了俊書状写(阿蘇文書/大日古13‐2)では,阿蘇惟村の戦功を賞し,「とても菊池勢無合力之儀者……まつ此菊池口のつめ陳をとり定候て……菊池の事も南郡の事も,早々ニ道行候ぬと存候,その上菊池事ハ,陳の城,くま目の城,木野城なと,更々兵粮なき時分にて候間,此城々の通路ニつめより候ハゝ,可落候条,案のうちの事ニて候」と述べている。また同年と推定される年未詳8年13日付の今川了俊書状写(同前)でも「抑宮方の勢のこらす菊池ニうちより候間」と述べ,阿蘇惟村の南郡出兵を促しており,同年10月日の橘大崎公次軍忠状(小鹿島文書/大友史料8)にも「八月十二日,伊倉・菊池・同団山凶徒散落之後」,永徳元年7月日の深堀時久軍忠状(深堀文書/県史料中世5)および同年月日の深堀時清軍忠状(同前)にも「去々年〈康暦元年〉……同(8月)十九日菊池御勢仕令供奉……今年〈康暦三年・永徳元年〉……同(4月)廿七日菊池御勢仕,致忠節」とある。永徳元年6月菊池城は落城する。永徳元年9月日の深堀時弘軍忠状(同前)には「去五月十日,馳参肥後国板井原御陣之処,同十二日,被□菊池館城之間,於当城仁致宿直之処,同十六日,被召隈□(部カ)城攻陣之間,日夜致合戦之刻,同廿二日夜〈刁剋〉武興已下凶徒□□(等令カ)没落訖,翌日廿三日,菊池浦染土城仁,五郎御曹司御発向之□,□(既カ)宮御所退散訖」とあり,6月22日の夜に菊池本城は落ち,菊池裏染土城(鷹取城)にあった征西将軍宮良成親王も逃亡している。この戦いについては,永徳2年閏正月日の青方重軍忠状(青方文書/纂集)にも「為多年不変御方,自最初於所々御陣致合戦忠節之刻,板井・木野・高島・菊池・能見・染土以下凶徒令没落畢」と見える。なお明徳2年9月28日の西大寺末寺帳(極楽寺文書/神奈川県史資料編古代中世3上)には「肥後国……〈菊池〉大琳寺」と見える。下って永正5年12月13日の豊田田馬村済物注文(柚留木文書/県史料中世3)には「きくちかたのふん□新四郎四斗五升□四郎右衛門四斗五升」「きくちかた内前になし候」と見え,同6年11月日の田馬村坪付(同前)にも「一,きくちかたのふん」として5か所,1町が記されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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