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合志郡


天正15年豊臣秀吉は島津氏の降服により九州を手中にし,肥後へは佐々成政を入れた。成政は入国するや検地を強行したため国衆一揆を引き起こして失脚,同16年肥後のほぼ北半分は加藤清正領となった。同年閏5月15日の清正宛秀吉朱印状(加藤清正家蔵文書/県史料中世5)によれば,清正に与えられた高合計19万4,916石のうち合志郡の高は2万1,504石となっている。慶長5年関ケ原の戦の結果,従来肥後のほぼ南半分を領していた小西行長は滅び,天草郡と球磨【くま】郡を除く肥後は清正領となった。関ケ原の戦以後における加藤氏所領目録(加藤清正伝)では,当郡の高4万8,505石余とある。この間,天正16年には豊臣秀吉の命によりいわゆる太閤検地が当郡でも実施されたが,この検地帳は現存せず,加藤氏がほぼ肥後一国を領してのちに実施した慶長9~13年の検地帳が残る。寛永年間頃には,当郡の高4万8,977石余うち田1万6,801石余・畠2万4,633石余,家数7,899・人数1万231,牛1,847・馬1,909(肥後読史総覧)。また「肥後国誌」では総高4万9,753石余うち軍役高3万4,691石余とある。軍役高の基となる幕府からの朱印高にならうと,「天保郷帳」で高3万6,672石余・村数60。実高に基づくと,「旧高旧領」で5万1,839石余,村数104。加藤氏は地方統制のために組制をとったが,寛永9年加藤忠広改易に伴い細川忠利が入部すると,細川氏は旧領豊前小倉で用いた手永制度を導入した。合志郡には,はじめ竹迫・板井・大津の3手永が設置されたが,寛文年間に板井手永は竹迫手永に合併されたため,竹迫・大津の2手永となった。「肥後国誌」では竹迫手永の高2万6,777石余,大津手永の高2万3,069石余。「事蹟通考」によると,竹迫手永の会所は福本村にあり,属する村は33か村,現在の西合志【にしごうし】町・合志町・泗水町・七城町一帯を含み,大津手永は会所を大津町に置き,属する村は37か村,現在の大津町・菊陽町・旭志【きよくし】村および阿蘇郡の一部を含む。また宝暦年間の各宗寺院の分布をみると,竹迫手永では浄土真宗9か寺・浄土宗4か寺・天台宗3か寺・禅宗2か寺,大津手永では浄土真宗4か寺・浄土宗3か寺・天台宗1か寺となっている(肥後続史総覧)。道は大道として豊後街道が通り,大津町が宿に定められている。大津町は在町としても機能し,物資を集散した。このほか竹迫町も在町として成長した。明治期に入って手永制は廃止され,郷制を経て,村々は大小区制に組み込まれた。明治4年熊本県,同5年白川県を経て,同9年熊本県に所属。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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