関町(近代)

明治22年~現在の南関町の大字名。明治24年の戸数350,人口は男875・女876。明治20年育英堂は南関小学校と校名変更,同年設立の関東・関外目の簡易校は,同34年には関東・関外目の各簡易校を合併し,現在地に移転し,南関尋常小学校となる。翌35年新校舎落成,大正5年高等科を併置,大正13年北原光太郎が奨学林5反を南関尋常小学校に寄贈,同年南関実業公民校を併置。昭和8年町立南関青年訓練所が開設される。同12年作詞北原白秋・作曲山田耕筰の南関尋常小学校校歌が制定された。白秋は電報で歌詞を送ったが,その電報は現在第一小学校に保存されている。同16年同校は南関国民学校と改称,同22年南関小学校となり,同年南関中学校が発足した。同30年南関第一小学校と校名変更。南関の特産物素麺の製造が明治20年代に南関素麺合資会社によって行われ,業者が200を超えたという(南関町略史年表)。大正12年には樽々に南関製糸が開業,昭和5年廃業した。大正11年に東肥鉄道が敷設され,現福岡県瀬高町から南関まで運行した(南関町略史年表)が,昭和12年廃止となった。同年から南関~大津間に省営バスが開通した。大正13年県道南関田隈線にトンネルが通り松風洞と称され,現大牟田市四ケとの交流が容易になった。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7452396 |





