肥後国

初見は,「日本書紀」推古天皇17年4月4日条で,百済の僧が「肥後国の葦北津」に泊まったことを大宰府の長官が報告している(古典大系)。ただし,「日本書紀」は奈良期の編纂物であり,同時期の概念が示されていると考えられる。成立は,同書天武紀に見える諸国境界決定の頃以降の持統天皇9年頃と判断され,「日本書紀」同10年4月27日条には,「肥後国の皮石(合志【こうし】)郡」が見える(同前)。確認される最初の国司は,和銅6年8月26日筑後守に補任され肥後守を兼帯した道君首名である(続日本紀)。奈良期の当国は,玉名・山鹿・菊池・阿蘇・合志・飽田【あきた】・託麻・益城【ましき】・宇土【うと】・八代・天草・葦北・球磨【くま】の13郡からなる上国であった。安定耕地の多い地理的条件に恵まれ,8世紀を通じてかなりの生産力と人口の増加がみられたようで,延暦9年には掾2人が加えられ(続日本紀),同14年には九州唯一の大国とされた。弘仁14年大宰管内で良田6分の1を選んで始められた公営田制も,当国が中心でかなりの成功を収めた。貞観元年には合志郡の西部を割いて山本郡がたてられ,14郡となった。国府は,一般に奈良期の託麻国府から,9世紀なかばに飽田国府に移ったとされている。託麻国府は,現熊本市国府本町・出水【いずみ】5・6丁目にまたがり方2丁の遺構が確認され,その東の出水1丁目には国分僧寺跡,北東の水前寺公園内に尼寺跡が確認されており,飽田国府は現熊本市二本木2丁目に比定されている。しかし「和名抄」の元和古活字本などに「益城〈万志岐,国府〉」,「拾芥抄」に「飽田〈府〉」と並んで「益城〈府〉」とあること,白鳳末期の肥後最大の寺院陳内廃寺(下益城郡城南町陳内字本村)が国府に伴う寺院にふさわしいことなどから,託麻国府に先行して益城国府を想定する説もある。9世紀段階の当国は,「和名抄」では14郡98郷,田数2万3,500余町,正税・公廨各30万束,本頴157万9,118束,雑頴77万118束とある。「延喜式」主税式では,正税・公廨各40万束,国分寺料4万7,887束・文珠会料2,000束・府官公廨35万束・衛卒料3万5,795束・修理府官舎料1万束・池溝料4万束・救急料12万束・俘囚料17万3,435束で,他の九州諸国に比して圧倒的に多い。同書の主計式に見える調・庸・中男作物は種類・量とも九州随一で,特に唯一当国にのみ調に絹が含まれている。調は絹2,593疋・綿紬25疋・貲布37端・布120端・羅鰒39斤・熬海鼠232斤14両・鯛腊332斤8両・乾鮹166斤13両・雑魚腊403斤でほかに綿・糸,庸は布80端でほかに綿・米,中男作物は木綿・麻・熟麻・席・韓薦・蒲薦・防壁・折薦・苫・簀・黒葛・胡麻油・海石榴油・荏油・鹿脯・押年魚・鮫楚割・蠣腊・煮塩年魚・鮨年魚・漬塩年魚・破塩であった。また同書の兵部省式に見える肥後の駅家は,西海道西路の主道と考えられるのが,大水【おおむつ】(現南関町)―江田(現菊水町)―高原(現植木町)―蝅
(現熊本市)―球磨(現城南町)―豊向(現松橋【まつばせ】町か)―片野(現八代市片野地区)―朽網(現八代市二見地区)―佐職(現芦北町)―水俣(現水俣市)であり,蝅
駅から分岐する豊後への道に坂本(現菊陽町)―二重(三重,現阿蘇町)―蛟槀(現一の宮町・阿蘇町),球磨駅から天草へ向かう道に長崎(現不知火町)―高屋(現三角【みすみ】町),佐職駅から薩摩大口盆地に通じる道に仁王(現水俣市市渡瀬字仁王)があった。肥後の軍団は4軍団4,000人であったが,弘仁4年2,000人に減じられた。益城軍団については,平城宮跡から「肥後国第三益城軍団養老七年兵士歴名帳」と木口に書かれた巻軸が出土している。ほかの3軍団は所在地不明。牧は「延喜式」では波良馬牧と二重馬牧があげられている。このほか宇土郡に大宅馬牧があったが,貞観6年に停止された。「延喜式」神名帳所載の神社は4座で,阿蘇郡の健磐竜命神社が名神大社,阿蘇比咩神社と国造神社および玉名郡の疋野神社が小座で,式内4社中3社を阿蘇神が占め,肥後における阿蘇神の占める位置の大きさが知られる。「六国史」にはいくつかの大災害が記録されている。「続日本紀」天平16年5月18日条(国史大系)には,雷雨と大地震により八代・天草・葦北で大被害となり,郡の官舎をはじめ民屋など470戸,1,520人,田地290町が洪水にさらわれたとある。「三代実録」貞観11年7月14日条(同前)には,大風雨により,官舎民屋の倒壊,人畜圧死無数といい,海潮により6郡が水没し,官物の過半が失われたと見える。10世紀以降,律令制の解体が進み,従来の郡郷制がくずれ,中世郷と荘園の成立に向かう。中世郷としては,玉名東郷・玉名西郷・山鹿南郷・山鹿北郷・阿蘇北郷・阿蘇南郷・飽田南郷・託麻東郷・託麻西郷・益木本郷・益東郷・八代北郷など郡を地域的に分割したものが11~12世紀に成立したほか,国衙領としての郷がある。所領単位としての郷と単なる地域呼称としての郷の区別は困難であるが,以下中世文書に見える主な郷名をあげると,玉名郡には野原郷・山北郷,阿蘇郡には小国郷・高森郷,このほか阿蘇谷には阿蘇品郷・坂梨郷・竹原郷・湯浦郷など二十数郷があり,飽田郡には立田郷,託麻郡には上島郷・安永郷・青木郷・桑原郷・布加良郷・津守郷・小山郷・木山郷,益城郡には矢部郷・甲佐郷・砥用【ともち】郷・男成郷・小北郷,八代郡には海東郷・道前郷・道後郷・太田郷・高田郷,球磨郡には久米郷などがあり,これらのなかには荘や保と同一名のものもある。一方,荘・別符・保には,王家領として山鹿荘・玉名荘・山本荘・阿蘇荘・鹿子木荘・詫磨荘(新荘を神蔵荘,本荘を安富荘という)・六箇荘・岳牟田荘(隈牟田荘)・豊田荘・宇土荘・球磨荘(このなかから人吉荘・永吉荘・須恵荘が成立),摂関家領として窪田荘・守富荘・甘木荘,石清水八幡宮(含弥勒寺・筥崎宮)領として野原荘・大野別符(荘)・泉荘・守山荘・藤崎宮,大宰府安楽寺領として玉名荘(安楽寺荘)・大路曲荘・赤星荘・合志荘・佐野荘・弥生荘・恵良荘・富荘・田島荘・富納荘・片俣領・田口荘(別符),宇佐宮領として伊倉別符・石原別符,延暦寺領として合志荘・八王寺荘,関東御領として永吉荘,荘園領主不明の荘には臼間野荘・千田荘・菊池荘・活亀荘・河尻荘・古保里荘・小野荘・小野鰐荘・八代荘・葦北荘,保に木部保・津守保・矢部保・豊福保がある。当国は王家領と大宰府安楽寺領が多く,王家領は巨大な郡名荘が多いのに対し,安楽寺領・宇佐宮領などは数十町程度の小規模荘園が一般的である。特に安楽寺領は合志郡に集中している。このような荘園公領制の基礎には,大小の武士団を形成し地方政治に登場する在地領主の成長がある。中世肥後武士団の中心をなす菊池氏は,11世紀はじめの刀伊の入寇の際活躍し大宰大監から少弐に進んだ藤原蔵規を祖とするという説が定説化している。その子則隆,孫の政隆は府官であると同時に肥後の押領使となり,「肥後国人」といわれ,一族は11世紀後半から12世紀にかけて,菊池・合志・山鹿・玉名の菊池川流域諸郡はもちろん,球磨や天草にまで広がり領主制を形成していった。もう1つの有力武士団は阿蘇氏である。阿蘇氏は国造から郡司,そして阿蘇社神主家として権威を高めつつ領主化し,12世紀はじめに健軍【たけみや】・甲佐・郡浦【こおのうら】の3社を末社化し,本末社領を合わせて王家領荘園とし,阿蘇南郷に進出,武士団化して大宮司と称し,平安末期までに阿蘇・託麻・益城・宇土4郡の肥後中央部に巨大な勢力園を作り上げていった。このほか両氏ほどの規模ではないが,12世紀中葉には益城郡の源姓武士団木原広実の反国衙行動が顕著で,「偏国中濫行,唯在于広実一人」(高野山文書/平遺4719)といわれるほどであった。これは院政期の国衙の在地支配強化への反撥であった。国司は一宮への神事奉仕を通じて在地領主層を侍身分として吸引編成し,在庁官人を国使として管内各地に派遣,在地管理を強化した。肥後の一宮は唯一の名神大社阿蘇神社であるが,同社が史料上一宮として現れるのは鎌倉末期である。それは同社が国衙から遠く,国侍の結集の場としての役割を果たすのに十分でなかったからであろう。そしてそれを補う役割を果たしたのは,承平5年平将門の乱平定を祈って石清水八幡宮から勧請された藤崎八旛宮(飽田国府近傍)であった。同宮は保延の造営が一国平均の役でなされて以来,中世を通じて国司・守護によって造営修理がなされている。まもなく平家の力が強力に及び,平清盛が保延3年中務大輔兼肥後守となり,仁安2年には八代郡に大功田を得ている。平家は大宰府・国衙および肥後で圧倒的な比重を占める院領荘園を通じて強い支配を及ぼし,在地領主制の展開を大きく制約した。治承4年9月以前,菊池権守と称し一国棟梁的存在となっていた菊池隆直は,南郷大宮司阿蘇惟安(泰)や木原盛実らを糾合し反平家の兵を挙げた。これに対し平家は肥後を宗盛の知行国とし,平貞能を肥後守として追討にあたらせ,2年後ようやくこれを鎮圧(養和の内乱),以後肥後の在地勢力は平家方の軍事力を構成することになった。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7453675 |