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肥後国


天正15年6月,豊臣秀吉は島津氏の服属によって九州を手中にし,6月2日佐々成政を肥後の新領主に任命した。ただし天草郡は天草五人衆,球磨郡は相良氏に従来どおり支配させ,成政の与力とした。また国内には服属したとはいえ,52人位いたといわれる国衆(国人)が在地領主として蟠踞しており,彼らは秀吉から直接領土を安堵されていた。成政は入部にあたって秀吉から6か条の指令が与えられており,そのなかには国人へ先規の知行を与えること,3年間検地をしてはならないことなどが記されていたという。しかし成政は領主として太閤検地を実施しようとしたため,有力国人の隈部親永は居城にこもって反抗を示し,その動きはやがて肥後国全土から各国へ広がっていき,国衆一揆が起こった。肥後の一揆は翌年まで続き,近国領主の救援によってようやく鎮静したが,成政はその責を負って尼崎で自害させられた。代わって翌16年閏5月に加藤清正・小西行長が領主に任命され,清正は北部8郡と葦北郡の一部,行長は南部3郡と天草郡を領した。ただし葦北郡のうち津奈木・水俣・久木野,託麻郡のうち加勢川と白川の河間の平野部(推定),玉名郡のうち高瀬・伊倉周辺には秀吉の蔵入地(直轄領)が設定されていた。また球磨郡は相良氏に安堵されて幕末まで続いた。翌17年小西行長は天草五人衆へ宇土新城の築造手伝を要請したが,五人衆は拒否して一揆が起こり,その結果,行長は半独立的だった天草郡を完全に支配下に置いた。そもそも清正・行長の肥後配置は朝鮮出兵の布石ともいわれ,文禄元年から慶長3年にかけての2度の朝鮮出兵には,先陣として清正は1万人,行長は7,000人の軍を率いたが,成果はなく領国の疲弊だけが残った。なお相良氏も清正の手について800人を率いて参陣している。慶長5年関ケ原の戦が起こると,清正は徳川家康方につき,石田三成にくみした行長の宇土城を攻略し,行長の旧領を与えられた。相良氏は,はじめ三成方についたが,のち家康方に通じて本領を安堵された。翌6年清正は天草郡を豊後3郡の一部と交換してもらい,肥後国は球磨郡・天草郡を除く表高54万石は加藤氏領,球磨郡は相良氏領,天草郡は肥前唐津城主寺沢広高の飛地領となった。寛永9年加藤清正の子忠広は改易され,この54万石はそっくり細川忠利に与えられ,以後幕末まで続いた。天草郡は寛永14,15年の天草・島原の乱後山崎家治が入って富岡藩を立藩,同18年幕府領となったが,寛文4年戸田忠昌が入部して再び富岡藩が成立,同10年以降幕府領となり,以後は専任代官,日田代官兼任,島原藩預り,西国郡代兼帯,長崎代官兼治などの形をとって幕末に至った。なお八代郡五家荘は貞享2年以降細川氏領からはずされて幕府領となり,幕末まで天草郡と同じ管下にあった。村数は,慶長国絵図(永青文庫)によれば玉名郡110か村・山鹿郡44か村・山本郡33か村・菊池郡67か村・合志郡59か村・益城郡286か村・阿蘇郡79か村・飽田郡90か村・託麻郡29か村・宇土郡47か村・八代郡57か村・葦北郡29か村・球磨郡42か村・天草郡60か村となっている。この村数は表高に基づき幕府の郷帳に載せられる数値にあたり,加藤氏から細川氏に引き継がれた熊本藩領では,特に実高および実高に基づく村数との間に相違が生じている。なお「正保郷帳」ではほぼ同じ村数で玉名郡7万3,927石余・山鹿郡3万3,116石余・山本郡1万7,387石余・菊池郡2万6,463石余・合志郡3万4,691石余・益城郡12万3,433石余・阿蘇郡5万4,628石余・飽田郡5万1,033石余・託麻郡1万9,088石余・宇土郡2万5,709石余・八代郡4万2,877石余・葦北郡1万7,534石余・球磨郡2万2,165石・天草郡3万7,409石余,表高57万9,711石余,ほかに新開分2万5,240石余とある。うち益城郡は元禄から享保年間の間に上益城郡・下益城郡に分かれた。また「天保郷帳」では,玉名郡110か村・7万9,038石余,山鹿郡44か村・3万3,316石余,山本郡33か村・1万7,778石余,菊池郡67か村・2万7,233石余,合志郡60か村・3万6,672石余,上益城郡と下益城郡を合わせて287か村・12万9,228石余,阿蘇郡84か村・5万9,895石余,飽田郡94か村・5万2,333石余,託麻郡29か村・2万333石余,宇土郡49か村・2万5,996石余,八代郡69か村・4万4,160石余,葦北郡30か村・1万9,218石余,球磨郡は椎葉山など現宮崎県分も含めて72か村・4万1,816石余,天草郡88か村・2万4,967石余,総高は現宮崎県域の一部を含んで61万1,920石余となっている。一方,実高は70万石を上回るといい,「旧高旧領」では,玉名郡257か村・12万5,441石余,山鹿郡67か村・3万6,180石余,山本郡62か村・2万6,654石余,菊池郡81か村・2万9,572石余,合志郡104か村・5万1,839石余,上益城郡201か村・9万8,324石余,下益城郡191か村・9万5,658石余,阿蘇郡214か村・7万2,800石余,飽田郡177か村・7万2,420石余,託麻郡59か村・3万2,101石余,宇土郡64か村・3万5,794石余,八代郡96か村・6万2,985石余,葦北郡204か村・2万1,023石余,球磨郡40か村・6万4,760石余,天草郡91か村・2万5,661石余,計76万797石余となっている。熊本藩は熊本に,人吉藩は人吉に城下町を形成して領内の政治・経済の中心地とし,天草郡は富岡に陣屋が置かれた。ただし熊本藩は熊本のほかに,旧来から流通上重要な機能を有してきた場所を町に取り立て,八代・高瀬・川尻・高橋には町奉行を置いて郡代支配から分離,熊本と合わせて五ケ町と称し,特別扱いした。次いで,宝暦年間からは宇土・佐敷を准町とし,先の五ケ町に准じる扱いとした。また薩摩街道・豊前街道など主要道沿いには宿場を設定,これら宿場のいくつかは在町としての機能も強め,またそのほかにも商品経済の発達に伴って町場を形成していく村々が現れた。在町の興隆は肥後国内各地での商品生産の浸透に支えられるが,それら商品生産のなかから特産・名産が生じていった。江戸初期の俳諧書の「毛吹草」によれば,隈本キセル・八代蜜柑・相良焼物・高瀬絞木綿・菊池苔・志岐白碁石などが見え,「肥後地志略」(肥後国地誌集)ではこのほか山鹿・益城・八代・宇土などの和紙,球磨の保多木綿,天草砥石,八代の燧石,葦北の櫓櫂,芦北海辺の百足苔,江津湖の水前寺苔,浅茅生酒,同田貫ほか刀剣なども書き上げられている。幕末から明治維新にかけての激動は天草郡に集約した形で表れ,富岡陣屋は花山院をかつぐ浪士隊に襲われ,一時期占拠された。この浪士隊の処理の過程で,天草郡の支配をめぐって薩摩藩と熊本藩の争いが生じたが,熊本藩預りに帰し,慶応4年閏4月府藩県三治制により富岡県,次いで天草県となり,長崎府から長崎県に編入された。明治4年廃藩置県を迎え,熊本藩は熊本県,人吉藩は人吉県となった。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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