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八代郡


当郡はその大半を八代荘が占め,そのほか守山荘・小野荘・小河郷・小熊野郷・豊福郷などが当郡域に存在した。建久6年3月日の甲佐社領文書案(阿蘇文書/大日古13‐1)は,八代北郷の四至を「南小河〈加海頭并国領薗肆箇所定〉四至〈東限山大平三垃,西限加海加志立,南限八代堺島越,北限比多尾辻〉」「北小河 四至〈東限南小河堺,西限頭無,南限八代庄堺并小河堺,北限守山庄堺〉」とする。北郷に南小河・北小河が含まれ,北小河の南堺に八代荘,北堺に守山荘があった。また宇土郡勾野の四至に「東限八代大道」とあり,宇土郡との境には官道が走っていた。郡内の大半を占める八代荘は建久3年11月に源頼朝の妹の一条能保室から男女子息たちに平家没官領として伝領され(吾妻鏡),その後北条氏の得宗領になったと推定される。建治2年10月7日の兵庫助某宛行状には「宛行〈中九郎島〉源次郎丸所 八代庄三ケ村内八千把村新開事」とあり,元亨2年2月9日の家弘宛行状には「宛行 源二郎丸所 三ケ村内八千把中九郎島荒田事」とあるように,当時の八代海沿岸の新田開発や荒田の開発状況を知ることができる(小早川文書/県史料中世3)。鎌倉期の守山荘は宇佐弥勒寺喜多院の所領であり,豊福保については,嘉禎2年3月17日豊後守護大友親秀から三男の観音丸に「豊福庄内久具十郎・同三郎領付焼米小藤次名地頭職」が譲られている(大友家文書録/大分県史料31)。また,当地の竹崎を本拠としたと思われる竹崎季長は,文永の役の恩賞として甲佐社の加護により海東郷の地頭職を得ている。その後,八代荘は元弘の乱による論功行賞によって後醍醐天皇から名和氏へ地頭職が宛行われたと推定され,建武2年には長年の子名和義高によって八代荘高田郷志紀河内村が出雲国杵築大社に,鞍楠村が紀伊国熊野那智山に寄進されている。現地には代官として内河義真が下向した。南北朝の内乱では,八代郡は南朝方の1つの拠点であり,北朝方との争奪の場となった。康永2年には八代荘道前郷(小熊野・鞍楠・法道寺・大野・種山・鏡)47町5反3丈が北朝方の足利直義から阿蘇惟時に安堵されており,正平元年には交通の要所である守山関や小河城下で両党の合戦があった。また「其後頼尚・義直分八代南北,以和談義,今宮・荒尾二ケ所御方城迦之畢」ともあり,郡内各地に山城が構えられ,合戦が続き,八代が少弐頼尚と内河義直によって南北に分けられていたことが知られる。翌年には頼尚が八代荘三ケ村郷弥松村・大村・太田郷杭瀬村・福生原村・萩原村・吉王丸村・京泊の地を相良定頼に預け置いている。その後,征西将軍懐良親王が肥後入国を果たし,正平13年には名和顕興が八代に下向,古麓城を本拠にして活躍するなど,南朝方が郡内を制圧した。しかし九州探題今川了俊が応安5年(文中元年)に大宰府を攻めて懐良親王を追ってからは北朝方に有利な情勢となった。懐良親王の跡を継いだ良成親王は菊池城落城後,八代へ逃れたといわれる。至徳元年,了俊は赤山城(南種山)を攻略し,明徳2年には大川・篠尾・岡城を攻め,さらに名和氏との宮地原合戦・八町岳城合戦を経て,良成親王と講和するに至った。南北朝統一後も郡内を名和氏が支配したといわれる。寛正年間になると名和氏一族に内紛が生じ,幼少の名和顕忠は難を逃れ,球磨の相良氏を頼り,相良氏の力で無事八代復帰に成功した。その恩に報いるため顕忠は寛正6年,八代郡高田郷350町を贈っている。しかし文明14年顕忠は相良為続の薩摩牛屎院出兵の隙をつき高田郷を取り戻すべく高田平山城を攻めたが,かえって相良氏により古麓城を攻め落とされた。明応8年には相良氏は菊池能運・名和氏のために敗れ,球磨に引き上げている。その後相良氏は文亀元年から再び菊池能運と連携して名和氏の古麓城を攻撃し,永正元年には名和氏を宇土に追い,古麓に新城を構え,宇土に退ぞいた名和氏と宇土・八代堺に位置する豊福をめぐって攻防を繰り返した。相良氏は郡内に興善寺城・平山城・大牟田城・南種山陣内城などの支城を構え,支城領内の小領主層を関衆・高田衆・大牟田衆・高津賀衆などの一所衆として郡内軍事体制を整えた。その後島津氏が肥後経略に乗り出し,天正9年には水俣城を攻略,島津氏と和睦した相良義陽は同年響ケ原の戦で甲斐宗運に敗北,相良氏の八代支配は終わり,代わって島津氏の八代支配が始まった。八代一帯の検地が施行され,八代は島津義久の直轄領となり,その名代として島津義弘が入城した。天正15年九州侵攻に際し,豊臣秀吉は吉本・大野・阿弥陀路から氷川を渡って宮原に入り勝専坊で休息,4月19日八代に入った。なお八代への途次,栫【かこい】で愛馬村雨が倒死している。秀吉は毛利輝元に熊本・宇土【うと】などの攻略の様子や八代の様子および肥後国の生産力などを報告させ,八代妙見宮に3か条の禁制を出している(肥後国誌)。肥前国の松浦鎮信・有馬晴信も八代の鷹峰城で秀吉と会見,相良長毎も来謁した。またキリシタン管区長コエリヨも秀吉のあとを追い八代に来て謁見している。9月8日秀吉は肥後の国侍である志岐・上津浦・栖本・城・赤星・伯耆・内空閑・小代・関・隈部・八代の十三人衆,八代三十人衆,阿蘇神主に安堵の朱印状を下付した。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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