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海部郡


「豊後国風土記」には,郷4所・里12・駅1所・烽【とぶひ】2所と記し,丹生【にう】・佐尉【さい】・穂門【ほと】の3郷を記述する。「和名抄」はこの3郷に佐加郷を加えるが,佐尉は佐井とある。駅は「延喜兵部式」「和名抄」高山寺本によると丹生駅を指し,駅馬5疋が置かれていた。郡には別に伝馬5疋も設けられている。丹生駅が丹生郷にあったとしても,所在は未詳。烽は当郡が交通運輸・軍事上の要衝にあるところから重視されたにちがいないが,所在は不明で,大分市大字坂ノ市の姫岳と北海部郡佐賀関町の遠見山に比定する説もある。「日本書紀」神武即位前紀の東征伝承によると,速吸【はやすい】の門にさしかかった時,漁人があらわれ一行を導いて「海導者」になった。彼は名を珍彦【うずひこ】といい,国神として曲浦【わだのうら】で釣りをしていた。そこで名を賜わって椎根津彦【しいねつひこ】と呼び,倭直【やまとのあたい】らの始祖になったとある。速吸の門は豊後水道を指す。「古事記」神武東征段にも速吸門の通過が見え,そのところの国神に名を賜わって槁根津日子【さおねつひこ】といい,倭国造らの祖になったとある。「古事記」の場合は明石海峡を指すらしく思えるが,何らかの混合があろう。「日本書紀」神代5段の第11の1書にも速吸名門【はやすいなと】が見える。速吸の門は本来,流れの早い海峡を指す言葉であろうが,豊後水道と大和王権との早くからの交渉は少なくともうかがえて,海部郡の式内社に早吸日女【はやすいひめ】神社がある(延喜式神名帳)。近くに椎根津彦神社もある。「豊後国風土記」速見郡条では,景行天皇がクマソ征討のため,周防国佐婆津より海部郡の宮浦に赴き,その村の長に速津媛がいたと伝える。「続日本紀」文武2年9月乙酉条に,豊後国から真朱が献上されたとあるのは,当郡丹生郷からかもしれない。朱沙がとれていたと「豊後国風土記」には見えるからである。「続日本紀」霊亀2年5月辛卯条には,大宰府の申請として,豊後・伊予2国の界に従来戍【まもり】が置かれていて往還を許さなかったが,以後五位以上の者が使を差して往還することだけは例外として認められたいとある。この戍の設置がどこかは不明だが,豊後水道の島か海部郡の沿岸部か,伊予国側であったろう。天平18年7月21日付の太政官符によると,官人百姓商旅の徒が豊前国草野【かやの】津,豊後国国埼津・坂門津から任意に往還し,ほしいままに国物を運輸しているので,自今以後きびしく禁断するよう大宰府に指示が下されている(延暦15年11月21日,太政官符/類聚三代格)。坂門津は「さかとのつ」か「さかのとのつ」と訓めようが,海部郡の佐賀関付近か,佐尉(井)郷のうちの現在大分市坂ノ市付近に比定される。しかしこの禁制は守られることがなく,延暦15年11月21日付の太政官符は大宰府解を引載して,摂津国司が過所【かしよ】を勘検し,もし過所や豊前国門司の勘過がない場合は,厳しく取り締って,難波との任意往還を禁制するよう太政官に申請したとある。ところがこの時の太政官裁は大宰府の申請に反して三津からの往来を認め,一方過所について従前どおり大宰府が発給するものの,門司で勘過は必要ないとした(同前)。「続日本紀」延暦4年正月癸亥条には,海部郡大領外正六位上海部公常山の昇叙記事が見える。郡不明の大宝2年「豊後国戸籍」断簡には,寄口として海部君族乎婆売が見える。この戸籍にはまた,阿曇【あずみ】部馬見売・阿理売・法提売もいる(大倉院文書1-215~7)。豊後国の海人集団が知られるが,海部郡の戸籍とは限らない。しかし海部郡司家の海部公(君)の存在は疑えない。「万葉集」巻16に「豊後国白水郎歌一首」として,「紅に染めてし衣雨降りてにほひはすとも移ろはめやも」が載せられている。海部郡の白水郎の歌であろうか。「天皇本紀」景行天皇の条に,兄彦命が「大分穴穂御埼別,海部直,三野之宇泥須別等祖」であるというが,このうちの海部直は海部郡司家の祖先ならびに国造伝承にかかわるものと思われる。天慶4年9月6日,藤原純友の同賊の桑原生行らは,海部郡佐伯院において追討使源経基の軍と交戦した。そして生行は生捕られ,その馬船絹綿戎具なども討ち取られたが,ほどなく生行は死んだという(本朝世紀,天慶4年11月29日条)。佐伯院の所在は不明だが,中世には佐伯荘が存在し,今は佐伯市がある。寛仁3年になると宇佐八幡宮常見名田の1つとして丹生津留【にうづる】畠20町が成立する。公私の祈祷のため,宝前において大般若経理趣分の転読が行われ,その料所に宛てたものというが,「宇佐大鏡」は侍従中納言家領と記す(到津文書/県史料24)。丹生郷に存在して,あるいは今の臼杵市のうちか。安元2年2月の「八条院領目録」には,智恵光院領として戸穴荘が見える。今の佐伯市戸穴【ひあな】で,佐伯湾に面す(山科家文書/平遺3904)。ついで治承4年5月11日の皇嘉門院惣処分状によると,最勝金剛院領として臼杵荘がある(九条家文書/平遺2995)。平安末期の内乱期になると,臼杵氏の動向が注目される。「玉葉」寿永2年10月14日条は,鎮西で挙兵した肥後国住人菊池氏とともに,豊後国住人臼杵氏も未だ帰服しないと記す。しかし「吾妻鏡」文治元年1月12日条によると,臼杵二郎惟隆は同弟緒方三郎惟栄とともに源氏の方人となり,源範頼軍を周防国から豊後国に上陸させるため,兵船を用意することになったとある。海部郡への上陸であった可能性が強い。そして同じく文治元年10月16日条には,惟隆・惟栄らが宇佐宮宝殿を破却して神宝を押し取ったので,配流の官符が下されたが,去る4日に非常の赦をこうむったとある。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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