大方名(中世)

鎌倉期~南北朝期に見える名【みよう】の名豊後国大野郡大野荘志賀村南方のうち大野川の支流平井川と本流にはさまれた山地大野郡朝地町大字上尾塚字大形に比定延応2年4月6日の尼深妙志賀村名々并上家分田畠在家等注文に,「一,大方名田数漆町半〈本在家伍家〉」とあるのが初見(志賀文書/大友史料2)大友能直後家尼深妙が,八男志賀能郷に譲った志賀村南方四名の1つ本在家5家のほかに,上家分在家8家があり,後者には総計して田6町4反・園2町2反があった志賀能郷は当名以下を嫡子泰朝に譲り,以後貞朝(忠能)と志賀惣領家に相伝された志賀惣領家に相伝される筑紫尾寺は,この名内にあったものと思われる現在は普光寺と改めており,6mを超える不動三尊の磨崖仏は鎌倉期の作で,県下最大(県史跡)なおこのほか,志賀氏は名内に中尾寺(長福寺)・岩屋寺などを建てた康永元年8月3日志賀忠能(貞朝)は,大方名内の地を妻や諸子に分譲したが,長福寺は比丘尼玄歓・玄明房に譲り,その住居とした当名は領家三聖寺と地頭志賀氏との間に,正応5年・正和3年の両度にわたって下地中分が行われた康永元年11月30日の志賀頼資譲状が,所見の最後である(志賀文書/大友史料2~6)

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7455434 |