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下毛郡


天正15年5月九州を統一した豊臣秀吉は,同年7月豊前国の内宇佐・下毛・上毛【こうげ】・築城【ついき】・京都【みやこ】・中津の6郡,12万5,000石(一説には15万石)の領主として黒田孝高(如水)を配した。孝高は入封後,まず京都郡馬が岳城,つづいて宇佐郡時枝城とうつり,翌16年正月には下毛郡中津に入り,ここを城地とし,城郭および城下町建設に着手した。入部後まもなく領内検地を実施する一方,新領主へ抵抗を示した宇都宮(城井)氏を中心とする土豪反乱を武力で鎮圧し,領国経営の基礎を固め,また中世末の戦乱で堂塔を焼失していた宇佐宮に300石の領地を寄進している。慶長5年,関ケ原合戦の功によって黒田氏は筑前福岡へ移封。丹後田辺城主細川忠興(三斎)が豊前一国と豊後のうち国東・速見両郡39万9,000石(一説32万石)の領主として中津へ入部。翌年検地を実施。慶長7年11月忠興は居城を移し,中津は嫡子忠利の居城となる。同年12月には領内各郡に郡奉行を置くが,当郡には加々山隼人が配された。元和6年忠興は隠居し,中津へ移り,小倉へは忠利が入城。この間も城郭および城下町建設を続行。元和8年忠利は領内の人畜改めを実施。当郡は里・上津野・山国の3組に分けられている。里3組は深水【ふこうず】・蠣瀬【かきぜ】・福島の3惣庄屋が配され,石高1万3,024石余,人数2,944,牛馬数641。上津野組は手島・落合・東谷・西谷・山移【やまうつり】・柿山(藤木)の6惣庄屋が配され,石高4,974石余・人数2,278,牛馬数330。山国組は加木野・津民【つたみ】・戸原・守実【もりざね】・槻ノ木【つきのき】の5惣庄屋が配され,石高8,284石余・人数3,284,牛馬数496。「小倉藩人畜改帳」に記載のない中津を除く当郡の石高は2万6,283石余・人数8,506・牛馬数1,467であった。当郡はキリスト教の分布も著しく慶長19年「下毛郡伴天蓮門徒町改帳」によれば当郡で126人の信徒が転宗させられており,福島村では惣庄屋以下44人,宮永村は13人と集中している。また惣庄屋が13名もその名をあげていることは注目される。この年中津で13名が非転宗ということで極刑に処されている。寛永9年細川氏は肥後熊本に転封され,当郡82か村全域は上毛・宇佐郡の内とともに,中津藩小笠原長次領8万石となった。小笠原氏は城下町中津の整備を継続し,寛文頃に完成したといわれる。その間領内の内検を行い,また貞享3年からは樋田村から山国川の水を分水する荒瀬井路の工事を草本の金銀山採掘の技術を利用してはじめている。元禄11年小笠原長胤は「行跡宜しからず」ということで領知を没収され,弟長円に上毛・下毛・宇佐3郡で4万石が与えられた。当郡81か村は長円領分は61か村,2万4,151石余,元禄7年に分知し11年からは旗本となった小笠原長宥領1村1,287石余,収公された幕府領19か村1万1,256石余となった。享保元年小笠原長邕の死後無継嗣のため小笠原領は没収。翌2年丹後宮津城主奥平昌成が中津10万石で入部,61か村は中津藩領に再編入。山国川上流19か村は幕府領として幕末に至り,明治3年厳原【いずはら】領に編入。当郡の村数,石高の変遷は「元禄石高帳」81か村3万6,688石余,「天保郷帳」81か村・4万7,779石余,「旧高旧領」98か村・4万7,593石余となっており,その内訳は中津藩領74か村3万4,525石余・時枝領3か村1,785石余・厳原藩領21か村1万1,283石余となっている。中津より日田へ通じる日田街道は山国川に沿っているが荒瀬井路工事のため水位が上がり,樋田村の青付近は鎖戸道という難所となっていた。享保20年から18年を要して僧禅海が青の洞門を開削している。また山国川通船もすでに元禄期には「薪材木等」(豊国紀行)が運送されていた。しかし,その拡大のための開発・航路延長が企画され,再三にわたって工事が行われている。文政期には樋田から中津藩領,幕府領の年貢米が運ばれているが大規模なものとはならなかった。文化9年2月の中津藩一揆では今津・三尾母【みおも】組などで騒動となっており,城下へ一揆が押し入ろうとするが,藩の鉄砲隊の発砲によって3人の死者がでている。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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