玉来村(近世)

江戸期~明治22年の村名。豊後国直入郡矢倉郷のうち。岡藩領。玉来組に属す。村高は「正保郷帳」187石余,うち田37石余・畑149石余,日損所がある。「見稲簿」「天保郷帳」同高,「旧高旧領」201石余。村位は上。岡城下の西南で,肥後への往還筋に位置し,入田・四原(恵良原・葎原【むぐらはる】・柏原・菅生【すごう】)方面の広い後背農村をひかえていたことから在町として発展した。古くは猫原【ねこばる】といい,鎌倉期正安2年に街域ができ,徳治2年には本町・新町・横町が成立したという(豊後国志)。文禄3年中川氏の岡城入部の後,当村の商家50余戸を竹田街に移したという(同前)。岡城下竹田町の発展とともに当村の町域は次第に衰微したが,藩は京都の島原・長崎の丸山に模して遊廓を置いた。寛文4年の大火災で商家は残らず焼失,この後一筋の街を再興したという(同前)。寛文12年に火の用心のために,下矢倉から井路を引いて町幅5間のうち1間は井路となった。また同年,町の中央の両方に畑2反を竹藪に仕立てた(地方温故集)。玉来組を管掌する大庄屋がおかれ,安永7年には文右衛門がこれをつとめた。岡城下までの里数1里(農民一揆)。寺院は真宗西本願寺派真正寺と光明寺がある。真正寺は徳治年間に肥人北条氏により創建されたが廃寺となり,元和2年僧教秀により再興されたといい,支坊に光運寺・正念寺を有した。光明寺は寛永18年寺号を受け寛文年間に現在地に移転。明治4年大分県に所属。同8年阿蔵【あぞう】村を合併。翌9年の村況は戸数178・人口947,牛13・馬6,田13町・畑24町8反,運輸の便はやや良い。主な物産は米500石・麦173石・粟179石・大豆119石・製茶1,180斤・楮皮3,000斤・紙類5,400束(直入郡村誌)。ほかに玉来特産として素麺が「豊後国志」に記されている。主な交通路は街並みのある肥後への往還が東西に貫通し,これより高千穂路が分岐している。公立小学校があり,男91・女26が在籍(直入郡村誌)。玉来郵便局が明治13年開設された。明治22年直入郡玉来村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7457468 |