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尾八重村(近代)


 明治4~22年の村名。はじめ肥後国球磨【くま】郡,明治5年からは日向国児湯郡のうち。尾八重谷・岩井谷・椎葉谷【しいばだに】・猪窪谷・東八重谷の5か村が合併して成立。明治4年の廃藩置県により人吉県に属し,八代県を経て,同5年美々津県,同6年宮崎県,同9年鹿児島県,同16年からは宮崎県に所属。「旧高旧領」には村高76石余と見える。明治5年の学制施行により第5大学区第25番中学区に属した。同7年の租税は,米15円47銭6厘・小豆13円99銭3厘・稗15円47銭8厘・大豆6円13銭1厘・麦6円27銭4厘・莚5円51銭2厘(西米良村史)。同11年尾八重小学校岩井谷支校が開校。「日向地誌」の著者平部嶠南が米良山を調査したのは明治11年5月26~31日で,調査の様子について「六鄰荘日誌」の中で,「米良十四村ハ皆山谷ノ間ニ僻処シテ道路艱難ナレハ村毎ニ立入テ調査スル能ハス,各村ノ副戸長等ヲ小川村ニ召出シ調査ヲナス」と記している。当村の調査は5月30日に行われ,「日向地誌」によれば村の規模は東西約3里・南北約3里,東は石川内村,および穂北村,西は銀鏡【しろみ】村および中尾村,南は三納村,北は中之又村と接し,宮崎県庁からの里程は西北へ約13里10町,地勢は「東尾滝岳ニ面シ,東南夜狩尾嶺ヲ擁シ,北空野岳ヲ負フ,山高ク谷深シ」「運輸極テ便ナラス,民業甚タ艱難唯々薪芻ハ乏シカラス」とあり,地味は「其田半ハ黒土,半ハ砂土,其質下ノ下,畑ハ悉皆黒土,其質下ノ上,唯茶ニ宜シ,水利ハ便ナラス,長筧ヲ設テ遠ク澗流ヲ引ク,夏月水涸レハ旱災ヲ免レス,又冷水多シ,雨歳ニハ多ク登ラス」と見える。また,税地は田7町余・畑22町余・宅地3町余・山林679町余・藪7町余などの計722町余,無税地は計3反余,官有地は原野19町余,貢租は地租金48円余・雑税金50円余の計98円余,戸数160・人数787(男396・女391),牛72・馬81,船1,村内の字地別戸数は大椎葉22・上椎葉8・打越18・椴木6・尾八重29・横尾5・小中尾8・小八重22・湯ノ窪14・岩井谷13・柏葉9。学校は本村の中央に人民共立小学校があり,生徒数は男64・女3。民業は皆農業を営み,農間に牛馬売買に3戸が従事した。物産は猪鹿10頭・茶1万斤・蒟蒻芋250貫・楮皮600貫・材木200片・下駄木500梃・椶櫚皮5万枚・蜜15斤・椎茸160貫・木耳3貫200匁・乾笋80貫。道路は北の中之又村境から南の三納村境まで隣村往来間道が通り,地内の山に尾滝岳・夜狩尾嶺・空野岳があり,川は米良川・椎葉澗・尾八重澗・岩井澗が流れる。また森林は尾滝岳雑樹林があり,規模は東西6,7町・南北2里18町で,松・杉・樫・櫟・槻・槙などの良材を備え,皆民有とされた。原野は「闔村平野ナシト雖モ山腰岳背樹木ノ生セサル処悉ク草茅ヲ生ス」と見える。さらに古跡として,上村に禅宗都於郡大安寺の末派大雄寺,大雄寺の北4町のところに真言宗都於郡一乗院の末派甘露寺があったが,いずれも明治4年に廃絶し,当時は宅地になっていたと記す。当村の神社として地内上村に大山祇神・大国主命を祀る尾八重神社がある。同社は永正8年11月23日地頭職黒木吉英鎮守神社の名をもって創建され,廃藩の際銀鏡神社に合祀されたが,明治13年村民が復旧を請願し,同年12月4日尾八重神社と称号し村社に列した(児湯郡郷土地理資料)。明治12年には尾八重村戸長役場が置かれていたらしい。同17年,当村は銀鏡村・上揚村・八重村・中尾村・中之又村と共同で,当村から東臼杵【ひがしうすき】郡上渡川村に通じる新道路を開削した。同20年には共同製茶場が設置され,組合員ははじめ14,5人であったが,年々増加した。当村では毎年旧暦8月1日を八朔と唱え,臼太鼓踊りを踊って村内の親交を深めたという。明治21年の戸数159・人口849,反別は田10町余・畑80町余・宅地7町余・山林687町余・原野19町余・雑種地3町余の合計808町余(郡行政/県古公文書)。明治22年東米良村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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