飫肥城下(近世)

江戸期の城下町名。日向国那珂郡のうち。飫肥藩の城下町。飫肥城を中心として城下は板敷村・楠原【くすばる】村の各一部に建設された。地形は一般に低地で,城跡のある小高い丘陵が海抜50m弱,その南に広がる旧城下町はほぼ20m前後で南と東南に傾斜している。飫肥城下を囲むように流れている酒谷川は,城の西北から回って市街地の西・南・東辺を抜け東の日向灘に注いでいる。城下町の本格的形成は,伊東祐兵が入封した天正年間後とみられる。江戸期の飫肥城および城下町の概況を知る資料は,寛永年間「飫肥旧城の図」,貞享2年「飫肥城改築願古図」,寛永・正保年間のものと推定される「飫肥城及び城下図」,慶応年間「飫肥城下古図」の4葉の古地図である。飫肥城は周囲24町2間2尺(2,620m),南に大手門,東に二重城戸門と後宮門を設け,西は酒谷川,北の搦手は酒谷より連なる山を負っており,城外に大手口・八幡馬場口・常真馬口・谷の口・永吉口の5外門があり,城内は本丸・松尾丸・中の丸・今城・西の丸・北の丸・小城・中の城・宮藪・八幡城に区分されていた。貞享元年11月6日の大地震で本丸にも及ぶ倒壊があったので,同3年から元禄6年の8年にわたって大改修を行い,本丸・中の丸・今城を一区とする地ならし,1丈8尺(5.7m)の石垣を築き,館舎楼櫓を新たに構築した。本丸の鬼門方向には伊東祐兵が天正16年に楠原村八幡原より遷したと伝える田ノ上八幡社が鎮座し,大手門東側には藩校振徳堂が天保2年に創建された。城下町変遷の概況は,江戸初期に十文字・大手・鳥居下・前鶴の屋敷地と町屋の本町・唐人町が形成されていたが,貞享元年の大地震を契機に飫肥城内をはじめ町づくりの改革が行われ,酒谷川の水を道路の側溝に引き入れるなど防火施設が設けられた。享保3年には後町上馬場の長倉又兵衛宅から出火し212戸が焼失,安永7年には大風雨があり,慶応2年にも類焼者を5か年間免税したほどの本町の大火があったが,それらの災害のたびに一般建造物の屋根組み・外塀などが改良されていった。町方は,寛永年間「飫肥旧城の図」では本町と唐人町が見え,このうち本町は飫肥城南方の武家屋敷に挟まれ,福島~都城に至る志布志街道筋に設けられた商人町で,年代は不明であるが江戸中期に東の方へ上新町・下新町などが生まれて町方の拡大が見られる。唐人町は,貞享2年「飫肥城改築願古図」では今町となっているところから,寛永年間から貞享年間に今町と改称されたものと思われ,町域は城下の東部で酒谷川北岸沿いにほぼ長方形をなしている。本町・今町の両町方の戸数は,「文化七年四月書上」(日向国史下)によると,本町107戸,今町88戸。天保初年の「飫肥藩分限帳」に記されている町別当(部当)は,本町は小村善右衛門(歩行格18石),今町は日高作兵衛(歩行格13石)である。幕末の完成した城下町の状況は,慶応年間「飫肥城下古図」によると,酒谷川曲流の北側に飫肥城が山地を背にして平屋の館を構え,城壁に南接する十文字地区と大手門北部に高禄藩士の屋敷があり,十文字地区の屋敷は伊東図書350石・伊東織人300石・借屋原源左衛門150石・平部波門130石・米良勘之助100石などで,大手門北部に伊東主人600石・郡司新100石などが見える。大手門南部は合屋郁次郎45石,鳥居下地区も稲沢彦蔵60石など中級藩士宅が多く見られ,町方を越して南の前鶴地区は梅村道伯・小坂丹意など御用医師や下級藩士と御用職人たちの家屋となっている。東端は小規模町屋で占める城下町形態をなし,その東部・西部一帯に浄念寺・安国寺・稲荷神社・祐光寺などの寺社が点在している。城下町区域に相当する人口は,「天保五甲午年宗門改人数高」(近世飫肥史稿)によれば,大手1,006(男555・女451)・西山寺169(男94・女75)・永吉621(男338・女283)・前鶴582(男332・女250)・本町471(男254・女217)・十文字1,234(男637・女597)・今町278(男143・女135)とある。ただし,そのほかに吉野方220(男118・女102)・釈迦尾ケ野603(男314・女289)・中島田688(男393・女295)・飛ケ峰487(男275・女212)・楠原317(男174・女143)を加えて麓合計人数6,676(男3,627・女3,049)と記帳されており,藩の行政上ではこの麓一円を城下として扱っていたとおもわれる。城下の年中行事の1つである盆踊りは,元禄以前から町人,宝永4年は武士をも藩公許で踊りを催すようになり,三郷踊りと称して大手十文字組・永吉西山寺組・前津留楠原組が毎年6月20日より文武の業も一同廃止して夜は集まって稽古に励み,7月14・15日に総役所または広小路(のちに報恩寺)で競演興行した。藩主在国のときは一門・家老を含めて観覧し,見物の男女は身分の上下なく酒飯を並べて集ってにぎわいをみせたという(日向纂記)。天保・嘉永年間頃から切迫した情勢に伴い武家踊りは低調となり,元治元年には本町・今町の町人踊り(歌舞伎踊り)のみを残し藩命で城下の盆踊りは廃止された。許可を受けた両町の歌舞伎踊りは,深編笠で顔を包み羽二重の着流しに朱鞘の落し差し,腰にゆらぐ印籠,舞の手は武芸十八番を型どり優美で武士の気魄をしのばせる踊りで,舞姿勢の高低2流が引き継がれていった。今町は鶴組で船歌調,本町は亀組で藩主をたたえる内容を伝え,飫肥泰平踊りとして昭和37年に県無形民俗文化財となって存続している。緑濃き山々と酒谷川の清流に包まれた静かで古風なたたずまいのこの小城下町は,糺・加茂など都の地名を取り入れた字地もあり,古くから九州の小京都と呼ばれていた。明治2年に14代藩主伊東祐帰は知藩事になると,父祐相とともに大手門外の予章館に転居し,本城は総務館と称して藩事務所となった。明治4年廃藩置県により飫肥県に属し,同年飫肥県から都城県に管轄が移るに際し,旧館舎などはすべて廃毀した。その後同6年宮崎県,同9年鹿児島県を経て,同16年からは宮崎県に所属。同17年南那珂郡に属す。同22年旧城下を形成した板敷村・楠原村・吉野方村・本町・今町はそれぞれ飫肥村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7459896 |





