風田村(近世)

江戸期~明治22年の村名。日向国那珂郡のうち。飫肥藩領。飫肥郷に属す。村高は,慶長10年873石余(御検地古今目録/日向国史下),元禄11年「日向国覚書」でも873石余,寛保2年には1,033石余(同前),「天保郷帳」では873石余,「旧高旧領」では923石余。「御検地古今目録」(日向国史下)によれば,慶長10年の反別は田畑屋敷合わせて75町3反余,寛保2年には同じく66町7反余。「天保五甲午年宗門改人数高」(近世飫肥史稿)によると三浦筋に属し,人数は374(男207・女167)。神社は川上大明神と大将軍があり,明治5年に合祀して風田神社と改めた(日向地誌)。明治4年飫肥県,都城県,同6年宮崎県,同9年鹿児島県,同16年からは宮崎県に所属。同17年南那珂郡に属す。「日向地誌」の著者平部嶠南が当村に調査に訪れたのは明治9年3月19日で,同書によれば,村の規模は東西約22町・南北約17町,東は宮ノ浦村,西南は益安村,南は平山村,西北は東弁分村と接し,宮崎県庁からの里程は南へ約12里1町,地勢は「東南ハ海ニ至リ西南ヨリ東北ニ連ナリ岡巒環繞ス,南ハ平坦ニシテ平山村ニ隣ル,運輸不便ニ非ス,薪秣モ亦自給スルニ足レリ」と見え,地味は田の土質中ノ中,畑の土質中ノ上,甘蔗の栽培に適し,水利は悪く池水を蓄えて灌漑に供したが3~5年に1度は干害にあったという。また,税地は田65町余・畑40町余・宅地8町余・切換畑4町余・山林12町余・原野5町・藪2町余などの計140町余,無税地は4畝余,官有地は山林18町余・原野63町余・藪6町余・海岸空地7町余などの計91町余,貢租は地租金711円余・雑税金233円余の計944円余,戸数127(うち神社1)・人数660(男349・女311),牛10・馬111,舟5,学校は本村の南畔に平山村と共同の人民共立小学校があり,生徒数は男97・女70。民業は男女とも農業を営み農間には漁業に従事し,そのほか工業11戸・牛馬売買1戸がいた。物産は瓦9,000枚・石灰若干俵・砂糖3万斤・糶700石。さらに道路は鵜戸神宮往還・飫肥城下往還が通り,用水は田辺溝・新溝・御崎溝・川路溝・蓑添溝があって村内の水田を灌漑したと記される。明治21年の戸数144・人口722,反別は田65町余・畑44町余・宅地8町余・塩田4畝・池沼3町余・山林40町余・原野68町余・雑種地13町余の合計244町余,諸税および町村費の納入額は国税780円余・地方税321円余・町村費90円余・協議費309円余,村有財産には原野5町・山林3町余などがあった(郡行政/県古公文書)。明治22年東郷村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7459938 |





