北方村(近世)

江戸期~明治22年の村名。那珂郡のうち。高鍋藩領。福島院のうち北方郷の中心地区で,北方庄屋の管轄下にあった。村高は,寛文4年「日向国之内秋月領地覚」(隈江家記/川南町史)および元禄11年「日向国覚書」にはともに1,910石余,「天保郷帳」には2,632石余,嘉永7年「領知郷村高辻帳」(日向国史下)には1,910石余,「旧高旧領」では3,965石余。また南方郷塩屋原に当村の飛地があったというが,石高は不明。北方郷の庄屋は当村に置かれていた。郡元御仮屋(西方村)から3里9町6間の位置に,藩の札辻が設置されていた(日向国那珂郡福島院之内秋月長門守領内地図)。神社は,貞享3年の「高鍋藩寺社帳」には百十二所大権現(現北神社),女体大明神,春日大明神,諏訪大明神(現諏訪神社)の4社が記載されている。このうち百十二所大権現は,本地は観音で神領は4石5斗,天平4年土佐国波多庄から勧請したと伝えられる。その後明応7年島津忠朝が再興し,天文20年には島津忠親,天正11年には島津義久によって再興され,近世になって寛文3年秋月種信が再興したという。社司は御目見,御盃の待遇にあった。毎年11月20日夜は火之舞が奉納され,社名も「火之舞様」と崇められていたというが,大正期に入り廃止されている。また同社には寛延元年,明和6年の記銘をもつ寄進灯籠がある。寺院は,貞享3年の「高鍋藩寺社帳」に高鍋の臨済宗瑞松山竜雲寺末の富春山永徳寺・正持寺・宝珠院および真言宗高鍋高月寺末極楽寺があった。このうち富春山永徳寺は地内羽ケ瀬にあり,保延元年開山とされ,応永18年島津豊後守忠朝が再興,さらに天和2年昭屋禅師が再興し,住職は御目見・御盃の待遇で屋敷1反を給されていた。同寺は室町将軍足利義教の異母弟義昭が自刃したところといわれ,義昭と従者源澄のものと伝えられる墓が同寺の裏山にある。本尊は鎌倉期の作といわれる像高163.5cmの木造薬師如来立像(樟材一木造り,漆箔)であるが,このほか同じく中世の作とみられる鉄造と銅造の誕生釈迦仏像がある。また同寺には石造遺跡として室町初期の線刻不動明王立像がある。極楽寺は地内古川にあり,室町期の五輪石塔群が残り,文明17年記銘の新納駿河守是久の墓がある。明治4年高鍋県,都城県を経て,同6年宮崎県,同9年鹿児島県,同16年からは宮崎県に所属。同17年南那珂郡に属す。明治5年の学制施行により,第5大区第27番中学区に属した。明治7年大田井小学を設置,同13年北方小学と改称し,同18年塩谷原小学と合併して地内前田に北方簡易小学として発足した。また,明治6年諏訪神社拝殿を開放して寺子屋教育を始めたが,翌年これを地内下吐合に移転して秋山小学とし,同19年から修業年限を3年とする簡易小学とした(郷土事物調査)。「日向地誌」の著者平部嶠南が当村に調査に訪れたのは明治9年4月29日で,同書によれば,村の規模は東西約20町・南北約1里20町,東南は本城村,東北は秋山村,西は西方村,西南は南方村の飛地塩屋原,西北は南方村と接し,宮崎県庁からの里程は南へ約17里25町,地勢は「東南連岡ヲ負ヒ,西本川ノ流ヲ帯フ,六分ハ平地四分ハ岡阜,運輸便ナリト雖トモ薪芻饒ナラス」とあり,地味は「其田七分砂真土,三分黒土,其質中ノ上,畑ハ赤黒相雑ル,其質中ノ中,水利便ナリ,旱害少ナシ」と見える。また,税地は田193町余・畑65町余・宅地17町余・切換畑5町余・山林37町余・原野25町余・芝地6町余・藪1町余などの計353町余,官有地は山林38町余・原野68町余・藪7反余などの計108町余,貢租は地租金2,193円余・雑税金669円余の計2,862円余,戸数220(うち神社1)・人数1,020(男534・女486),牛30・馬387,舟2,学校は中央部の大井田(大田井)に人民共立小学校があり,生徒数は男71・女37。戸長役場は西北隅の屋治にあった。民業は皆農業を営み,農間に工業に12戸が従事した。物産は糶1,500石・紙500束・杉材木100片・杉板50坪。さらに道路は市木往還が西南の南方村境から東北の本城村境まで通り,東は東川,用水は初田溝・六月溝・円道津留溝が流れ,森林に茂山ノ雑樹林・谷ノ口宇土ノ雑樹林・田口宇土雑樹林・初田宇土ノ雑樹林,湖沼に大丸池・年ノ神池・竹下池・谷ノ口池・後迫池・
ケ谷池・天神谷池・法光ノ池が記される。明治10年10月,3小区戸長川崎盛善が鹿児島県飫肥出張所に報告した「戸数調べ」(雑書類/県古公文書)によれば,当村の戸数は笹峰8・柿原6・初田6・堂ノ下11・坂元5・田淵18・屋治38・谷ノ口22・後田1・大田井10・古川13・円道鶴10・羽ケ瀬21・上ノ坊15・前田18・畠中9となっている。また同年の西南戦争に際し,当村からは28人が出軍したという(雑書類/県古公文書)。同21年の戸数216・人口1,124,反別は田193町余・畑70町余・宅地17町余・池沼2町余・山林78町余・原野100町余・雑種地2町余の合計466町余,諸税および町村費の納入額は国税2,160円余・地方税796円余・町村費250円余・協議費209円余,村有財産は耕宅地5畝余があるのみ(郡行政/県古公文書)。明治22年北方村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7460057 |





