櫛間院(中世)

鎌倉期~戦国期に見える院名。日向国宮崎郡のうち。現在の宮崎県串間市を中心とする地域をさす。建久8年の「日向国図田帳写」には,島津荘寄郡として宮崎郡のうちに「櫛間院三百丁」と見え,地頭は島津忠久と見える。島津忠久は,建仁3年の比企氏の乱後,島津荘日向方・大隅方の地頭職を失い,その後は北条氏の手に移ったとみられる。北条氏の代官として下向したとみられる野辺氏は,安貞3年2月日の櫛間院田畠注進目録(野辺文書/日向古文書集成・旧記雑録前1・鎌遺3814)を相伝しており,安貞2年の検注の結果,櫛間院の総田数387町6反2丈のうち,荒田が52町あり,335町6反2丈の現作田に損田93町9反中があり,現実の年貢賦課可能の田数は241町7反1丈中と記している。また,野稲畠の記載があることから,陸稲栽培が進行していたことがわかる。その後,文永5年3月25日の櫛間院年貢注文(野辺文書/日向古文書集成・旧記雑録前1・鎌遺9899)によれば,この年の年貢の総計は195貫636文である。内訳は,定田327町1反4丈には反別20文の賦課で65貫436文,得田261町7反2丈には飫肥【おび】南郷の年貢賦課の反別39文に準拠して102貫78文,桑代が13貫122文,色革30枚代として反別500文で15貫文となっており,年貢の銭納化の背景にこの地での貨幣流通の広がりをうかがわせる。鎌倉末から南北朝初頭の櫛間院地頭職の相伝関係を記した櫛間院地頭職相伝系図ならびに櫛間院本主次第手継系図(志布志都城野辺文書/鹿児島県史料拾遺6)には,元亨3年から,飫肥南郷地頭の家人であった阿野大輔法橋観睿,元弘元年からは通睿が相伝し,建武元年3月21日,野辺久盛が勲功の賞として拝領したと記している。野辺久盛の地頭職拝領の背景には,鎌倉最末期の鎌倉幕府倒壊の頃,野辺久盛・久邦が反北条方にたち,鎮西探題北条(赤橋)英時に捕らえられ,久盛は規矩高政(金沢北条氏一門)に,また,久邦は釜利谷師政に預けられた事態に対応するものとみられる(博多日記・野辺文書)。建武2年5月11日の雑訴決断所牒案(比志島文書/日向古文書集成・南北朝遺254)によると,建武政権は,中宮領日向国櫛間院雑掌弘成の申し出により,守護島津貞久に対して,下地を引き渡さず城郭を構えて抵抗する野辺久盛・盛忠父子の鎮圧を命じている。この城郭占拠は長く続いたらしく,暦応2年8月30日日向国国大将畠山義顕証判禰寝清種軍忠状(禰寝文書/九州史料叢書19,池端文書/日向古文書集成・旧記雑録前1・南北朝遺1394)によれば,建武3年11月21日,「櫛間城」に拠る肝付兼重方の南朝勢に対し,禰寝清種らがその攻略に加わっており,野辺氏はこの際もその中心の領主の1人であっただろう。櫛間城跡は串間市を貫流する福島川の西部,眼下に平野部を一望する位置にある。建武5年7月7日の日向国国大将畠山義顕証判日下部盛連着到状案(郡司文書/南北朝遺1196)では,野辺盛忠は「日向国凶徒」とされ,この年5月29日から飫肥南・北両郷と櫛間院に攻め入った後に降伏したと記されており,南朝方にあった。この頃,櫛間院では長谷場氏が浸透を図っており,康永3年正月1日の櫛間院領家下文(長谷場文書/南北朝遺1980・日向古文書集成・大日料6‐8・旧記雑録前1)には,島津荘領家は長谷場氏に対して,仏神事興行,勧農,課役勤仕を命じており,長谷場氏はこのころ櫛間院の弁済使職・収納使職等の職に補任されたものとみられる。一方,野辺盛忠は,貞和5年11月8日,本貫の武蔵国榛沢郡野辺郷行貞名地頭職と櫛間院地頭職を惣領泰盛に譲り,足利尊氏の証判を得ていることから北朝方に転じたことが明らかとなる(野辺文書/日向古文書集成・大日料6‐13)。この地頭職相伝に関して,櫛間院地頭職相伝系図(志布志都城野辺文書/鹿児島県史料拾遺6)には,泰盛について「訴人」と注記されており,櫛間院地頭職の相伝をめぐって野辺氏一族の間で訴訟が起こっていたことを示している。櫛間院の在地支配を深める野辺氏は,延文4年9月26日,野辺盛房が櫛間院弁分の水田5町を恩徳寺に寄進し,野辺氏被官への給分もその中に含まれていることから,自らの精神的基盤の強化を氏寺の形成によって図ったことがわかる(野辺文書/日向古文書集成・鹿児島県史料拾遺6)。このことは,さらに,永和4年6月2日,野辺盛連・盛久が父盛房(法名長阿)の寄進状によって櫛間院弁分の水田5町を恩徳寺に寄進,恩徳寺の地位保全を図っている点にもみることができる(野辺文書/日向古文書集成)。長阿の法名からも時衆の可能性が高い。南北朝末期,島津氏の領国形成の進展のなかで,応安8年2月25日,島津氏久は野辺氏嫡流の野辺盛久の申請した櫛間院と大隅国深河院北方の安堵を室町幕府にとりついでいる(野辺文書/旧記雑録前2・今川了俊関係編年史料)。このころの島津氏発給とみられる長井氏宛ての某知行宛行目録(島津男爵家所蔵文書/日向古文書集成)には,櫛間院西方の門14か所が記されており,島津氏の在地への浸透と門の形成が進行していたことがわかる。南北朝末期の櫛間の地はまた,領国形成を図る島津氏と中央権力のはざまにあった。正平年間の頃,北朝方の畠山直顕の勢力は島津氏久と対抗したが,直顕方は氏久に追われ,櫛間に退却し,櫛間・飫肥は直顕方の影響下にあると記されている(山田聖栄自記/鹿児島県史料集7)。その後,九州探題今川了俊は,九州統治のために島津氏久に対抗し,永和4年の頃,土持栄勝は大将今川満範と櫛間・飫肥に在陣した(土持文書/日向古文書集成)。年不詳6月10日付の金王丸書状によれば当時,九州探題今川了俊方は飫肥・櫛間・大隅の吉田を基盤にし,ここでの禰寝氏の協力を求めている(禰寝文書2/九州史料叢書19)。その後,室町期の島津元久の頃,櫛間・市来城を島津氏は攻略し,また,島津氏の被官本田忠親は島津元久に反し,櫛間から志布志方面に展開したが,これも押さえられ,15世紀初頭には,櫛間方面は島津氏領国に組み込まれるに至った(山田聖栄自記/鹿児島県史料集7)。嘉吉元年,将軍足利義教によって櫛間の地に追われた大覚寺義昭は,島津氏に討たれ,その首は,島津忠国から将軍義教に届けられた(年不詳4月14日付の大内持世書状,島津家文書/旧記雑録前2,編年大友史料10,大日古16‐1)。島津氏はのちに,この功により琉球を付庸されたと主張することとなるのだが(島津国史),この時,義昭は野辺盛仁の庇護下にあり櫛間の永徳寺にいて討たれることになったようである(寛正4年7月7日付の本田宗親覚書,藤野氏蔵本/旧記雑録前2)。この事件後,櫛間に勢力をもっていた野辺氏は島津氏の勢力に吸収されていくことになる。その室町中期に生きた野辺盛仁は,その所領目録(志布志都城野辺文書/鹿児島県史料拾遺6)に当知行分として「櫛間院一円」と記し,櫛間院の知行安堵を期待したが,享徳元年,島津忠国は飫肥と櫛間を島津季久に宛行い(旧記雑録前2),文明6年8月の行脚僧雑録(同前)には櫛間の城主として伊作久逸が見える。文明16年,飫肥の新納忠続は久逸を他の地に移そうと求めたが,久逸はこれを受け入れず,文明16年10月26日,反乱の兵をあげ,島津氏は櫛間を攻めた(文明記/旧記雑録前2)。日向の伊東祐国は久逸方に加わったため,薩・隅・日3か国を巻き込む大乱になり,久逸が屈服したのは文明17年7月のことで,久逸は伊作へと移った(文明記/旧記雑録前2)。この結果,文明18年10月19日,島江忠昌が島津忠廉に飫肥院とともに「櫛間院一円」を安堵して内乱は収束した(島津豊前蔵文書/旧記雑録前2,黒岡帯刀所蔵文書/大日料8‐19)。島津忠昌は,延徳2年4月1日,櫛間に赴き,犬追物を行っている(加治木鹿屋仁右衛門文書/旧記雑録前2)。明応3年には,島津忠昌は,島津忠朝と新納忠武の間に不和の生じた事態に対して,老名の村田経安に対して,三俣(都城方面)と飫肥の用心をするように注意を促している(村田太右衛門尉蔵文書/旧記雑録前2)。忠朝は,以後,弘治~永禄年間の櫛間の領主であった(樺山玄佐自記/旧記雑録後1)。永禄4年,島津氏は肝付氏を攻め,島津忠将は討死しているが,肝付氏方は櫛間に薬丸胡運をおいたことが知られる(箕輪自記/旧記雑録後1)。永禄5年,飫肥が伊東氏に攻められる事態になった時,永禄5年9月17日,飫肥城に櫛間の「泰心様」は大将として伊東氏と戦い,飫肥・酒谷を取り返している(北郷時久日帳/旧記雑録後1)。また,この伊東氏との抗争で,永禄9年5月24日,櫛間衆は目井に出陣している(同前)。しかし,島津忠親は,伊東氏・肝付氏の進出に耐えられず,永禄11年には櫛間を肝付氏に渡し都城に移った(同前)。元亀3年9月29日,忠親は肝付氏に対抗して櫛間への侵入を図った(同前)。一方,肝付兼亮は,元亀4年正月6日,大隅末吉口に進出し,北郷時久はこれに対し住吉原で合戦し破った。この時の末吉口討捕頸注文には,肝付氏の将伊集院竹友ら150余の首を記し,そのなかには櫛間の伊地知弥五郎らが見え,櫛間が肝付氏の支配下にあったことがよくわかる(肝属氏系図文書写/大日料10-13)。天正3年正月28日,肝付氏の援助のため伊東義祐が櫛間と志布志に兵船を送ったことを,都城の北郷時久が島津氏に報告している(上井覚兼日記)。そして,天正4年8月の頃,肝付氏は志布志と櫛間を伊東氏に渡そうとしていたようだ(樺山玄佐自記/旧記雑録後1)。天正5年,島津氏と伊東氏攻略の地は櫛間城がその争点となっていた(箕輪覚書/旧記雑録後1)。この合戦の後,大隅に強大な勢力を誇った肝付氏は,櫛間島津氏の手に帰し,高山のみを支配するだけになった(新納忠元勲功記/旧記雑録後1)。天正8年肥後水俣陣立日記(入来関係文書/入来文書)には,櫛間の地頭として伊集院下野守久治が見え,地頭衆中制がとられた。天正16年8月5日,島津氏の豊臣政権への敗北の後の領知割に際し,秀吉は秋月種長に櫛間400町を宛行っている(秋月文書/日向古文書集成)。天正19年の「日向国五郡分帳」には,那賀郡として「櫛間 四百五十町」と見える。なお,永禄6年2月28日,島津貴久は「日向国櫛間湊」の天神丸の船頭日高但馬守に対して,琉球渡海を免許する朱印状を発給している(高山衆日高千代次蔵文書/旧記雑録後1)。また,文禄5年閏7月5日には薩摩から左遷をとかれて帰洛する近衛信輔が,志布志を出船して「くしまのうらちのゝ湊といふ浦」に停泊し,領主秋月入道のもてなしをうけ,同7日,出船している(玄与日記/群書18)。当地の海岸部が南海航路の要衝として重要な位置を示していたことを推察させる。最後に文化的な面について記すと,永正12年6月7日の島津忠治証状(大興寺蔵文書/旧記雑録前2)によると,鹿児島大興寺は,嘉吉元年室町幕府将軍足利義教の追及を逃れて櫛間院に下向し島津氏に殺害された大覚寺義昭の菩提を弔うために島津忠国が建立したものという。また,元亀元年8月4日,櫛間院の十三所大明神宮司谷口行栄は吉田神道家の卜部兼見から神役の勤仕を認められ,冠を与えられており,吉田神道が櫛間院十三所大明神と緊密な関係にあったことを証している(兼見卿記)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7460096 |





