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児湯郡


天正15年の豊臣秀吉の九州仕置により当郡も統一政権下に入り,豊前国秋月岩石城主秋月種長が日向国内に3万石を与えられ,当郡財部【たからべ】を居城とした。のち寛文~延宝年間に財部は高鍋と改められたので,高鍋藩という。また,島津豊久が都於郡・佐土原・新田・富田・妻万・平郡などを安堵された。ほかに,臼杵郡県【あがた】(のち延岡)に5万石を与えられて入封した高橋元種の所領も飛地として当郡に存在した。天正19年の「日向国五郡分帳」はこれらへの所領の宛行の基礎となったものの1つと思われるが,これによると当郡の反別は1,338町,内訳は山田60町・三財30町・荒武30町・加勢30町・藤田30町・平郡30町・三納80町・鹿野田80町・清水30町・三宅80町・妻万30町・穂北80町・童子丸30町・調殿30町・右松30町・黒生野30町・岡富30町・井倉8町・新田80町・富田80町・三納代30町・日置25町・肥木方100町・郡司分100町・平田方100町・塩見方25町・野別府50町となっている。慶長5年の関ケ原の戦では,秋月種長は当初石田方に属したものののち徳川方に従ったので,戦後も本領3万石を安堵され,西軍に属した鹿児島城主島津氏,延岡城主高橋氏の所領も安堵された。ここに江戸期の高鍋藩が成立し,また鹿児島藩・延岡藩の所領も所在することになる。慶長8年鹿児島藩島津氏の分知家として島津以久が当郡内の鹿児島藩領の地を与えられ,那珂郡佐土原3万石として佐土原藩が成立し,当郡内に所領を有することになった。こうして江戸前期には当郡に高鍋藩領を中心として延岡藩・佐土原藩の3藩領が生まれたのである。延岡藩主は慶長19年有馬氏(5万3,000石)に代わったが,当郡内の所領には変更はなかった。寛文4年の朱印状によれば,当郡は高鍋藩領1万2,175石余,延岡藩領5,010石余,佐土原藩領1万7,859石余に分かれ,その所属村は,高鍋藩領27か村(高鍋・日置・上江・市山・椎木・三納代・持田・岸上・高城【たかじよう】・平田・川原・持見・石・板屋・鹿遊【かなすみ】・上別府・落子【おとしこ】・寺迫・田原・丸山・征矢原【そやばる】・長野・苽生・岩山・篠別府【しのびゆう】・猪窪・大池),延岡藩領9か村(穂北・童子丸・三宅・清水・調殿【つきどの】・右松・岡富・黒生野・現王島),佐土原藩領11か村(山田・三才・荒武・妻万・鹿野田・平郡・三納・加勢・藤田・富田・新田井倉【にゆうたいぐら】)で,合計47か村,高3万5,044石余である(寛文朱印留)。元禄4年延岡藩主有馬氏は越後国糸魚川に転封となり,翌5年三浦明敬が下野国壬生【みぶ】から入封するが,領知高は2万3,000石と少なく,これを機に日向各郡に幕府領が設置され,当郡もこれまで延岡藩領だった村々が幕府領となった。すなわち,穂北・童子丸・三宅・清水・調殿・右松・岡富・黒生野・現王島の9か村と穂北村から分村した南方村を加えた計10か村で,「天領穂北」と総称され,幕府日田(豊後国)代官所の管下で,臼杵郡富高に置かれた富高陣屋の支配をうけた。以後,当郡内は高鍋藩領・佐土原藩領・幕府領となり,明治維新にいたる。高鍋藩の所領3万石(元禄2年3,000石を分知し,以後は2万7,000石)は,当郡のほかに那珂郡・諸県【もろかた】郡・宮崎郡・臼杵郡にも散在していたが,当郡内の所領は城附地として重要視された。当郡内の城附地27か村は,新納院と野別府【のびゆう】の2地区に大別されてそれぞれに代官を配し,全体を13郷に区画してそれぞれに庄屋を置き村々を支配した。新納【にいろ】院には高鍋郷・上江郷・持田郷・三納代郷・日置郷・椎木郷・田原郷の7郷があり,野別府はさらに中通と野別府両名に分かれ,中通には高城郷・石河内郷・平田郷・鴫野郷の4郷,野別府両名には川北郷・川南郷の2郷があった。ほかに町方としては,高鍋城下町と都農町・高城町があり,津口(港町)として美々津・蚊口があった。「天保郷帳」によれば,当郡は48か村・高4万2,729石余で,村名は荒武村・山田村・三才村・三納村・加勢村・藤田村・平郡村・鹿野田村・妻万村・新田井倉村・富田村・現王島村・黒生野村・岡富村・三宅村・清水村・右松村・童子丸村・調殿村・穂北村・南方村(穂北村之内)・持見村・川原村・石村・板屋村・鹿遊村・椎木村・市ノ山村・三納代村・日置村・高鍋村・上江村・高城村・岸ノ上村・持田村・大池村・平田村・篠別府村・猪窪村・苽生村・征矢原村・長野村・岩山村・寺迫村・落子村・上別府村・田原村・丸山村が記載されている。慶応4年(明治元年)閏4月25日幕府領であった穂北村など10か村は富高県に属し,同年8月27日からは日田県に属した。しかし,明治4年2月,豊後国内の延岡藩領と日向国内の日田県管下とが替地となり,上記の10か村は延岡藩領に編入することになった。同年7月14日の廃藩置県により,当郡内は高鍋県・佐土原県・延岡県の3県に分かれた。同年11月14日府県の統合が行われ,日向国内は大淀川以北の美々津県,以南の都城県の2県に統合整理されたが,これにより当郡は全域が美々津県に属することとなった。同5年9月23日肥後国球磨【くま】郡に属していた米良山14か村,すなわち小川村(木浦村を含む)・横野村・村所村・板谷村・上米良【かんめら】村・竹原村・上揚村・銀鏡【しろみ】村・中ノ股村・尾八重【おはえ】村・中ノ尾村・八重村・越ノ尾村・寒川【さぶかわ】村が当郡に編入した。明治6年の当郡の反別は9,300町余(日向国史下)。「旧高旧領」によれば,高5万9,552石余,村数52か村の村名は高鍋・上江・椎木・高城・石河内・川原・平田・持田・川南・三納代・日置・川北・高松・岩爪・荒武・山田・上三財・加勢・三納・平郡・下三財・藤田・鹿野田・妻・伊倉・新田・上富田・下富田・現王島・黒生野・岡富・清水・三宅・右松・調殿・童子丸・南方・穂北・小川・越ノ尾・銀鏡・上揚・八重・中尾・村所・板谷・竹原・横野・上米良・寒川・中之又・尾八重の各村である。明治6年1月15日宮崎県,同9年8月21日鹿児島県に属し,同16年5月9日からは宮崎県に属す。明治10年前後に調査して同17年に完成した「日向地誌」によれば,当郡の幅員は東西15~16里,南北約9里18町,東は日向灘,西は熊本県球磨郡,南は宮崎郡と諸県郡,北は臼杵郡に接し,地勢は「東ハ滄海ニ面シ,南涯ニ佐土原川ヲ帯ヒ,北畔ニ美美津川ヲ抱ク,原野広漠,岡阜高低,田圃其間ニ交錯ス,西北ニ米良山アリ,重巒複嶺十余里ニ連ナリ,直ニ肥後国ニ接ス,慶長中米良領主米良氏(今菊池ニ復ス)肥後人吉藩ニ付庸タリシヨリ地モ亦従テ肥後ニ属セリ,然トモ米良山中ノ水総テ東海ニ注キ,固ヨリ日向ノ地ニ疑フヘキナキヲ以テ明治六年宮崎県建置ニ及テ復日向ニ属ス」と見え,風俗は「全郡ノ内旧高鍋藩ノ所轄アリ,旧佐土原藩の所轄アリ,又旧幕府ノ所轄モ其中ニ厠ル,治化ノ覃及スル所習俗モ亦同シカラス,頑陋惰倣,下流ニ居テ上ヲ譏ルモノアリ,敦樸質愨,官長ヲ敬シ朝旨ヲ奉スルモノアリ,不動産ヲ固有シテ専ラ生計ヲ営ムモノアリ,米良山中ノ如キハ深山幽谷ノ中ニ僻処シテ世間ノ情態ヲ諳セス,故ニ世人ハ米良ノ野蛮トテ之ヲ一笑ニ付スレトモ,言語容貌郡中ノ男女ニ比スレハ却テ優美ナルモノアリ」といい,地味は「富田以外穂北ニ至ルノ諸村間黒ソミ土・黒ホヤ土ノ種類モ多シト雖モ之ヲ要スルニ沃饒ノ地六七分ニ居ル,高鍋ヨリ西石川内ニ至リ北美美川ニ至ルノ諸村ハ沃饒ノ土ナキニ非スト雖モ多クハ平野原曠野一里如クハ二三里ニ亘リ,徒ニ松苗短草ヲ生スル所六七分ニ居ル,米良山中ノ如キハ総テ赤砂礫・赤ホヤ土ノ類ニシテ埆塉ナラサルハナシ,唯山中ヲ開拓スレハ随テ自然ニ茶水ヲ生スルハ亦他村ニ異ナルモノアリ」と記す。また,村数は明治9年に52か村で,その村名は井倉村・新田村・上富田村・下富田村・岩爪村・荒武村・山田村・上三財村・下三財村・藤田村・平郡村・加勢村・鹿野田村・三納村・穂北村・調殿村・右松村・清水村・南方村・妻村・三宅村・童子丸村・岡富村・現王島村・黒生野村・小川村・越野尾村・銀鏡村・上揚村・八重村・中ノ尾村・横野村・村所村・板谷村・竹原村・上米良村・尾八重村・中之股村・寒川村・日置村・三納代村・高鍋村・上江村(明治5年市ノ山村を合併)・椎ノ木村・高城村・石川内村(明治5年鹿遊村・板谷村を合併)・川原村(明治5年持見村を合併)・平田村・持田村(明治5年岸上村を合併)・川南村(明治5年猪窪村・大池村・円山村を合併)・川北村(明治5年篠別府村・瓜生村・征矢原村・長野村・岩山村・寺迫村を合併)・高松村(明治5年落子村・上別府村・田原村が合併して成立),郡役所は高鍋村に置かれ,税地は田5,100町余・畑7,068町余・宅地1,195町余・不定田16町余・不定畑43町余・切換畑1,575町余・荒田3町余・荒畑4畝余・新開田2反余・新開畑23町余・荒地18町余・山林8,769町余・原野773町余・藪487町余・芝地208町余・楮場2町余・櫨場8町余・茶場1反余・柿場4反余・植藺場7反余・曝稲場4畝余・曝魚場3町余・物置場1反余・塩田7町余・池2町余の合計2万5,313町余,貢租は地租金7万251円余・雑税金2万7,447円余の合計9万7,698円余,戸数は本籍1万1,518・寄留38・社100・寺16の合計1万1,672,人口は男2万6,583・女2万5,243の合計5万1,826,牛1,926・馬1万4,461,日本形船346,神社88,うち国幣小社1・県社2・郷社9・村社76,寺院16,うち禅宗3・真宗8・真言宗2・浄土宗2・時宗1,人民共立小学校は岩爪村・鹿野田村・荒武村・山田村・上三財村・下三財村・加勢村・平野村・三納村・三宅村・右松村・妻村・南方村・穂北村・岡富村・新田村・上富田村・下富田村・御苗代村・日置村・高鍋村・上江村・持田村・平田村・川南村・川北村・高松村・高城村・椎木村・川原村・石川内村・小川村・村所村・銀鏡村・中ノ股村・尾八重村の各村にあり,郵便取扱所は妻町・高鍋駅・都農駅・美美津駅・都於郡駅の5か所にあった。さらに,民業は各村ともほとんどが農業に従事するが,東部の御苗代・日置・高鍋・持田・平田・川南・川北など沿海諸村は農間に漁業を行い,蚊口・美々津の2港では漁船を乗り出して魚を釣り,米良山中は田圃が少ないため焼畑を行うといい,物産には動物類として鯛・小鯛・鰺・魳・鮪・鱶・鮫・鮖・刀魚・烏賊・伊勢蝦・香魚・白魚などを沿海や高鍋川・穂北川沿岸の諸村で捕り,米良山中では猪・鹿・狐・狸・猿・兎などを捕獲し,植物類としては平年で約3万石の糶を出し(穂北米と称されるほど評判も良い),高鍋村周辺では櫨子の生産も盛んでこれも高鍋生蝋と称され,ほかに各村とも菽麦・煙草・油菜子などを少しずつ出荷し,器用類としては傘・笠・提灯・木履・竹器などを各村で製造するが,とくに名のあるものはなく,飲食類としては川北村で生産される海丹が名産品であると記し,主な山川としては尾鈴山・米良山・美美川(耳川)・穂北川・高鍋川,港湾として蚊口浦と美美川口(美々津),道路として大分県街道が記されている。明治17年宮崎県のいくつかの郡は東西などに分割されたが,当郡は分割されずに1郡として存続した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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