下三ケ村(近世)

江戸期~明治22年の村名。日向国臼杵【うすき】郡のうち。下山ケ村とも書いた(日向国覚書)。はじめ延岡藩領,元禄5年からは幕府領。村高は,「寛永11年差出」(国乗遺聞)および元禄11年「日向国覚書」ではともに48石余,天保9年のものと推測される幕領調査(日向国史下)および「天保郷帳」ではともに116石余,「旧高旧領」では133石余。なお,上述の天保9年の幕領調査では,村高116石8斗4升のうち6斗余が諸引とあり,残余116石2斗2升1合の内訳は田66石余・畑49石余。主要作物は米・麦・楮皮・椎茸・木炭・麻・柿などで,木材のみは小丸川を利用して高鍋町に搬出していたが,ほかの椎茸・木炭などは馬で山陰【やまげ】村舟戸まで運搬し,そこで商人に売却していた。神社は,伊佐賀神社のほかに,字深谷に弘治年間の創建と伝えられる須賀神社(旧称祇園牛頭天といい,明治4年に改称),字八ツ山に永禄3年の創建という天神社がある。天神社は戦国期に大友氏の乱入によって兵火に遭い,宝物・古文書類を焼失したという。「日向地誌」によれば,須賀神社の社地2反余,祭神は素盞嗚命・水波女命,例祭は6月15日,天神社の社地1反余,祭神は少彦名命・大山祇命,例祭は旧暦11月25日であったが明治6年以来は一定せずとある。両社とも村社。なお,同書には伊佐賀神社の名は見えない。また,同書によれば,西部の矢櫃山中腹に錫山の坑跡8か所,岩菅山山麓に鉛山跡がある。錫山の発見は往古のことといわれるが,慶応年間頃延岡藩士大平長次が藩の許可を受けて開発に着手し,2~3年後資金難のため中止されたといい,鉛山も明治初年に大平長次が開発したが,1年足らずで廃止されたという。明治元年富高県,同年日田県に属するが,同4年延岡藩領となり,さらに同年延岡県,美々津県を経て,同6年宮崎県,同9年鹿児島県,同16年からは宮崎県に所属。同17年東臼杵郡に属す。「日向地誌」の著者平部嶠南が当村に調査に訪れたのは明治12年6月20日で,同書によれば,村は東西の2区画に分けられ,東部の規模は東西約1里25町・南北約1里6,7町,西部は東西約1里・南北約2里,東部は東から北へ山陰村,西が坪谷村,南が児湯【こゆ】郡高松村と接し,西部は東が坪谷村,西が中渡川村,西南が中ノ股村,北が神門村・水清谷村・田代村,南が児湯郡石川内村と接する。宮崎県庁からの里程は北へ約23里29町,地勢は「東西分レテ両部トナル,東ナルハ坪谷村ノ東ニ接シ,西ナルハ坪谷村ノ西ニ接ス,其相距ル凡三十町,山川原野ノ景況ハ坪谷村ノ部ニ見ユ」とあり,坪谷村の地勢については「南尾鈴山ノ北麓ニ接シ山脈蜿蜒全境ニ交互ス」「運輸便ナラス,薪芻ハ足レリ」と記される。当村の地味については「其田八分ハホヤ土,二分ハ砂礫土,其質下ノ上,畑モ亦大約ホヤ土(赤黒),真土ハ僅ニ一分ニ居ル,其質中ノ中,蜀黍ニ宜シ,水利ハ便ナリ,水害モ亦少ナシ,山間ノ田ハ冷水多ク秋収寡ナシ」と見える。また,税地は田56町余・畑44町余・宅地6町余・切換田4反余・山林479町余・原野120町余・荒地2畝余・藪11町余などの計718町余,無税地は計1町余,官有地は山林1,287町余,貢租は地租金498円余・雑税金64円余の計562円余,戸数131(うち神社2)・人数679(男359・女320),牛110・馬81,村内の字地別戸数は下津留10・深谷22・瀬渡(瀬戸)10・平田20・子洗(児洗)9・田口原12・中津留19・八ツ山7・下渡川15。学校は坪谷村の人民共立小学校に通学。民業は皆農業に従事し,農間には工業に8戸,製紙業に2戸,牛馬売買に3戸が従事した。物産は,猪鹿50頭・斑魚5,000尾・香魚2,000尾・蜀黍50石・稗10石・茶4,500斤・楮皮300貫匁・煙草300斤・炭5,000俵・椎皮400貫匁・杉材木1,500片・櫓木100丁・下駄木100丁・松材木3,000片・紙1,200束・椎茸800貫匁・木耳5斗・蜂蜜7,000斤・栗15石・柿子9万顆。さらに,山として神門越・七曲阪,川として神門川,用水として中津留溝・深谷溝,道路として椎葉山往還があげられている。明治18年坪谷小学校の分教場が設置され,生徒数18。同22年分教場は廃止され,独立校として越表小学校が開校。明治21年の戸数133・人口710,反別は田59町余・畑39町余・宅地8町余・山林1,736町余・原野15町余・雑種地114町余の合計1,974町余,諸税および町村費の納入額は国税678円余・地方税293円余・村費127円余,村有財産には山林869町余がある(郡行政/県古公文書)。明治22年東郷村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7460272 |





