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富田荘(中世)


平安末期~南北朝期に見える荘園名日向国臼杵【うすき】郡のうち現在の日向市財光寺・日知屋付近と,新富町上富田付近に比定する両説がある宇佐八幡宮領「宇佐大鏡」には「富田庄起請定田四十四丁」と長承年間の目録には定田55町あったが減じた旨を記し,この荘が国司海宿禰為隆の時,永承年間に封民15人の代として荒野に四至を定め,宮に立券を進めて開いたもので,所当例済物は「重色八十八石 軽色八十八疋 田率綿三十三両〈正二十二両〉口十一両 桑代絹十二疋 上品二疋代六疋 麁絹六疋」であると記す(大分県史料24)延岡市岡富にある今山八幡宮の天永元年11月の今山八幡宮御造営祭会引付・今山八幡宮御神事并祭会料米下行引付によると,今山八幡宮の神事・祭会や造営は臼杵・岡富・富田の3荘が中心となって運営されていたことがわかる(今山八幡宮旧記)安元2年2月の八幡宇佐宮符案によると,行幸会に色々雑物として「御服綿一屯 手作布四段 麻布五段 調布二段 色革拾枚 紫六斤 茜六斤 紅花一斤 空青四十五両 銅廿七両八分」と行幸会綾船水手を「富田・調殿合一人」出すように命ぜられている(奈多八幡縁起私記/日向国荘園史料1・平遺3744)鎌倉期になると,建久8年の「日向国図田帳写」には,宇佐宮領「富田庄八十丁」臼杵郡内,「地頭故勲藤原(左)衛門尉,不知実名」とあるこの故勲藤原(左)衛門尉とは工藤祐経のことであり,「日向記」に見える工藤祐経の日向4か所の所領の1つ,富田荘80町が,当荘に相当するものであろう工藤祐経の子伊東祐時は七男八郎九郎祐景に富田荘と県荘を与え,祐景は門川氏の祖となる康永3年閏2月28日の尼明知土地売券に山城国延年寺の地を「日向国富田荘内日智屋寺別当御房」に売ったことが見える(妙本寺文書/大日料6-8・日向古文書集成)この文書が当荘を日向市に比定する根拠の1つであろう日知屋は宇佐弥勒寺領富高荘に近く,富高荘を富田荘に誤ったかとも思われる貞治元年12月の大光寺年貢日記に「七百文富田麦代」「一貫文富田地料」,貞治7年正月18日の大光寺年貢諸日記に「二百文富田地料」とあるが,当荘のことか下富田のことか不明である(大光寺文書/日向国荘園史料1・日向古文書集成)伊東氏四十八城の1つ富田城は,当荘の新富町の比定地内に築かれており,新富町の方が有力であろう富田城(上ノ城)は一ツ瀬川河口に近い新富町上富田字上城ノ元にあり,永禄年間には伊東氏の将湯地氏の居城であったという(日向記)その後,島津氏の支配下となって以降は新納氏が守り,「上井覚兼日記」天正12年11月18日・同13年5月28日・同14年6月17日などに見えているこの間,応永28年の「五郡田代写」臼杵郡内に「富田八十町」とあり,また,天文2年8月3日の宇佐宮領注文(到津文書/大分県史料24)に「富田庄八十町」とあるが実態ははっきりしない天正16年8月4日の島津豊久宛て豊臣秀吉の知行方目録(磯尚古集成館文書/鹿児島県史料拾遺1・旧記雑録後2)にも「八拾町 富田」,天正19年の「日向国五郡分帳」にも「富田 八十町」と見える




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7460551