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南郷(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える郷名。日向国宮崎郡のうち。飫肥【おび】南郷のことで,現在の南那珂郡南郷町から日南市南部に及ぶ一帯。建久8年の「日向国図田帳写」に,島津荘寄郡とし飫肥南郷110町が見え,地頭は島津忠久であった。応永28年の「五郡田代写」にも田数110町と見える。建久9年2月22日付源頼朝御教書案(旧記雑録前1)によれば,鎌倉幕府は島津忠久に対し,鹿屋院・真幸院・満家院・穆佐院・南郷・宮里の弁済使名田・郡司名田を宛行っているが,ここに出る南郷は当郷のことであろう。また,承元2年3月3日の飫肥南郷地頭所屋敷安堵下文(長谷場文書/日向古文書集成)では,南郷地頭某が南郷沙汰人に対し千世松母堂の屋敷を安堵するよう命じている。鎌倉期に,北条氏の日向支配と密接に結びついて日向に下向したとみられる野辺氏相伝文書のうち,文永5年3月25日櫛間院年貢注文(野辺文書/日向古文書集成・旧記雑録前1)には,櫛間院の得田261町7反2丈の年貢は「飫肥南郷」に引き寄せて反別39文の賦課を行ったとある。櫛間院と飫肥南郷は支配の面からは極めて近い関係にあったことがわかる。正中3年3月の島津荘留守左衛門尉惟宗下文(志々目家文書/鹿大史学14)は,大隅国禰寝院の志々目村の弁済使職と寺山別当職の相論を裁許したものだが,この文書に見える観睿は「飫肥南郷地頭家人」と記される様に地頭の被官で,禰寝院弁済使職相伝次第(同前)に「飫肥南郷公文大輔法橋観睿」が志々目村弁済使職を相伝している点からも,飫肥南郷の公文の地位にあったとみられる。この観睿は,鎌倉末期から南北朝初期の櫛間院地頭職の相伝関係を記した櫛間院地頭職相伝系図(野辺文書/鹿児島県史料拾遺6)に見える「阿野大輔法橋観睿」と同一人物とみられ,鎌倉末期の北条氏の在地支配に深くかかわっていたとみられる。建武5年7月7日付畠山義顕証判日下部盛連着到状案(日向郡司文書/南北朝遺1196)によれば,櫛間院に根拠をもっていた野辺盛忠が南朝方の肝付兼重に与して,「飫肥南北・櫛間院」で活動していたが,盛連はこれと合戦して盛忠を降参させたという。飫肥南北両郷での南朝方の広範な活動と野辺氏の勢力拡大の様がわかる。また,貞和3年5月27日付島津道鑑(貞久)軍勢催促状(重久文書/南北朝遺2328・日向古文書集成・旧記雑録前1)によると,四国・中国の海賊30艘余りが飫肥南郷内の目井浦と大隅国肝付郡内之浦の間を横行しているとの野辺盛忠の報告をうけて,重久氏に軍勢を出すことを求めており,当地は海上交通の要衝として重要な位置にあった。この年,貞和3年10月17日,島津荘飫肥北郷の領家一乗院の給主琳乗は,飫肥南郷に勢力を扶植し北郷の弁済使職と収納使職にあった長谷場鶴一丸に対して,飫肥南郷の給主である兵衛督入道が罷免されて,琳乗が南郷の給主も兼務するようになったと伝えている(長谷場文書/日向古文書集成・南北朝遺2387)。また,飫肥南郷に勢力を拡大していた野辺蔵阿(政弐・盛房)は,延文2年8月,道場弘願寺に対して「飫肥南郷大平野村」を寄進している(野辺文書/日向古文書集成)。この弘願寺は,時衆道場かとみられる。正平18年9月9日,南朝方の征西将軍宮懐良親王は,五条頼元に対して,筑前国三奈木荘とともに飫肥南北両郷の地頭職を宛行っている(五条文書/日向古文書集成・大日料6‐25・熊本県史料4)が,支配の実体は不明である。室町期に至り,応永2年今川了俊は九州探題を解任され,応永3年渋川満頼が九州探題に任ぜられた。「応永記」(旧記雑録前2)には,応永4年渋川満頼は大友修理亮に「飫肥ノ南郷」を宛行ったと伝える。室町期の享徳~長禄年間頃に生きていた野辺盛仁は,野辺氏が過去に幕府などから安堵をうけたり,もしくは,自領と認めた所領目録を残しているが,そのうちに「飫肥之南郷一円」と見え(野辺文書/鹿児島県史料拾遺6・旧記雑録前1),野辺氏は飫肥南郷を自身の領主基盤を形成する重要地と認めていたことがわかる。その後,文明6年8月の薩・隅・日3か国の領主配置を記した行脚僧雑録(旧記雑録前2)によれば,新納氏の所領として,志布志・松山・安楽とともに南郷が見える。戦国期になり,天正3年3月13日,島津朝久は鹿児島に使を派遣し,飫肥方面からの伊東氏攻略の際,南郷に陣がしかれるか打診している。そして,天正3年11月11日島津氏は,伊東氏と縁をもつ肝付氏の家督問題に手をつけ島津氏を夫人にもつ肝付兼続の子兼護を家督にして,伊東氏系の肝付兼亮を遠ざけ,伊東氏と義絶し,南郷付近で伊東領と入り混じっている地の繰挙を約させている(以上,上井覚兼日記)。その後,天正4年10月1日,肝付氏は島津氏方に移り,伊東氏は南郷に進出し,肝付氏が敗北すると島津氏は志布志・松山・安楽・大崎・串良・平房・恒吉・高つま・鹿屋・大姶良・西俣・ふつ原など,肝付氏の根幹となる所領を没収したのである(北郷時久日帳/旧記雑録後1)。伊東氏が島津氏に敗北すると,南郷は島津氏領国にくみこまれることとなる。天正11年5月20日,島津氏の老中伊集院忠棟は南郷に滞在していることが知られる(上井覚兼日記)。南郷は,島津氏の山東地域統轄者としての上井覚兼の指示下にはないとみられることから,島津氏の別の老中(おそらく,伊集院忠棟)の統轄下にあったとみられる。島津氏の豊臣政権への敗北後,天正16年8月5日豊臣秀吉朱印知行方目録(伊東文書/日向古文書集成)によれば,「南郷」300町は伊東祐兵に他の所領1,736町の内として宛行われている。その後,天正16年の8月12日島津義久・義弘連署状(旧記雑録後2)によれば,島津氏は豊臣政権に対して,「日州南郷之事,累年伊右入道預届候之処,頃伊東へ被下之由,幸侃申聞候」とあるように,南郷は伊集院忠棟の所領であったとみられ,島津氏は,南郷を伊東氏に与え,島津氏の手から離れることを愁訴している。南郷が島津・伊東・肝付氏の係争地であり,浦など把握に重要な面をもっていたことがこれらの係争の背景にあるとみられる。なお,近世には南郷は飫肥藩の地方支配のための郷名として用いられ,毛吉田・萩之嶺・上方・下方・塚田・大窪(以上,現日南市),津屋野・谷之口・脇本・中村・潟上・贄波【にえなみ】・大窪(一部)・橋ノ口(以上,現南郷町)の13か村が所属し,郷内を管轄する南郷地頭所ははじめ上方村の広田にあったが,後に中村の宮園に移されたという(南郷町史)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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