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西長江浦村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。日向国諸県【もろかた】郡のうち。鹿児島藩直轄領。加久藤郷に属す。古くは長江浦村と称し,寛文4年「日向国諸県郡村高辻之帳」,元禄11年「日向国覚書」および「天保郷帳」など幕府へ提出された郷帳類には長江浦村とある。しかし,鹿児島藩の行政的な史料には当村名で記されることが多く,藩領内では当村名で呼ばれるのが一般的であった。「旧高旧領」では西長江浦村と見え,村高は1,289石余。なお,明治前期の「日向地誌」は,もとは東長江浦村と一村をなし,天明・寛政年間に東西2か村に分かれたとするが,不詳。村内には多くの門が存在し,千代反田門・出水門・徳重門・前原門など25門が確認できる(加久藤町郷土誌)。神社は鎮守の南方神社をはじめ,厳島神社・京峯神社・近戸神社があった(日向地誌)。なお南方神社はもと諏訪大明神社と称していたが,諏訪神社を経て,明治3年南方神社と改称した。「三国名勝図会」によれば,諏訪大明神社は応永10年大願主式部丞義兼の建立で,その棟札を収納するという。祭礼は7月28日で,大太鼓踊り(ウバッチョ踊り)という文禄・慶長の役の凱旋踊りが奉納された。また社内には燕尾箭大小50本が収納されていた。ほかに郷士竹内孫右衛門宅には山神社があり,神体は古鞍3・大鹿角1という。大鹿角は伝承によれば,島津義弘が飯野在城中に自ら狩猟に出て射留めたものという。元禄6年の由緒によれば,当地で清水を湧出させた霧島山信仰の性空上人の出水伝説があり,湧水地は出水門,湧水は出水川と称された(加久藤町郷土誌)。明治4年鹿児島県,都城県を経て,同6年宮崎県,同9年鹿児島県,同16年からは宮崎県に所属。同年北諸県郡,翌17年からは西諸県郡に属す。明治12年東長江浦村・榎田村とともに3か村が連合して戸長役場を置いた(県古公文書)。「日向地誌」の著者平部嶠南が諸県郡を調査したのは明治13年で,同書によれば,当村の規模は東西約23町・南北約2里18町,東は東長江浦村,西は大隅国桑原郡栗野郷・吉松郷,南は同国同郡踊郷,北は栗下村・灰塚村・永山村,西北は浦村と接し,宮崎県庁からの里程は西へ約18里30町,地勢は「東北一隅僅ニ平地ニ連ナリ,西南栗野岳ヲ負フ,岳麓ヨリ北ニ至ルニ随ヒ原野陵夷,運輸便ナラス,唯薪芻饒足,民力大ニ舒フ」と見え,地味は「其田六分沙土,三分赤黒埴土,一分ハ黒ニガ土,其質上ノ下,畑ハ大約ニカ土,其色黒,其質下ノ上,水利ハ便ナラス,時々旱災ニ困ム,水害ハコレナシ」と見える。また,税地は田82町余・畑36町余・宅地7町余・切換畑30町余・原野3反余・藪2町余などの計160町余,無税地は計6反余,官有地は山林93町余・原野99町余・藪3町余などの計196町余,貢租は地租金978円余・雑税金262円余の計1,241円余,戸数81(うち社4)・人数353(男186・女167),牛92・馬87,村内の字地別戸数は溝園11・池迫7・平ノ馬場36・竹中12・新田11。学校は栗下村にある人民共立小学校に通った。民業は皆農業に従事し,ほかに牛馬売買に2戸が従事した。物産は,犢10頭・駒20頭・猪鹿5~6頭・鶏250羽・糶600石・楮皮250貫・椎茸若干斤・鶏卵3,000顆。さらに,川は長江川・出水川が流れ,道路は隣村往還が通り,古跡として池山城跡・溝園城跡が記される。明治21年の人口378,反別は田82町余・畑67町余・宅地7町余・原野3町余の合計161町余,諸税および町村費の納入額は国税983円・地方税360円・町村費87円,村有財産は耕宅地5反余などがあった(郡行政/県古公文書)。明治22年加久藤村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7460631