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福島(中世)


 南北朝期から見える地名。日向国宮崎郡のうち。現在の宮崎県串間市を中心とする地域である。佐々木系図(続群5下)によれば,佐々木重秀は「建武元庚戌年下向日州福島」と記す。重秀が串間地方の何らかの所職に補任されていたことを推測させる。享徳元年6月12日,島津忠国は島津季久に旧領の日置80町の替わりとして飫肥と福島を与えた(旧記雑録前2)。その後,文明2年に伊作久逸が福島に地頭として封ぜられ,同5年には島津立久が櫛間で犬追物に興じており,同6年8月の行脚僧雑録(同前)には,櫛間の城主として伊作久逸が見える。文明16年,飫肥【おび】の新納忠続は久逸の移し替えを島津氏に求めたが,久逸はこれを拒み,薩・隅・日3か国を巻き込む内乱となった。久逸は文明16年10月28日に兵を出し,これに対し,島津本宗家は「福島」を攻めた。文明17年7月,久逸は屈服し,伊作へと復すことになった(文明記/旧記雑録前2)。この合戦後,文明18年10月19日,島津忠昌は島津忠廉に対して櫛間を与えたが,天文9年6月の島津忠親譜では,その入部を「自隅州帖佐郷被量移日州飫肥福島之院,此時文明十八年丙午十二月初日」と記している(旧記雑録前2)。延徳2年3月26日,島津忠昌は,「福島」の地を訪れ,この地で犬追物に興じている(同前)。その後,天文年間ごろに「福島之院」を領したのは島津忠広であったが(瀬戸口伊豆入道覚書/旧記雑録前2),弘治年間ごろには,島津貴久が「志布志・福島・飫肥ヲハ豊後守忠親ニ進ラセ玉フ」とあり,島津忠親の所領となっている(箕輪伊賀自記/同前後1)。この間天文9年2月18日,新納忠勝が串間市市来の竜源寺に対して,福島院市来の水田5反を寄進しており(旧記雑録前2),永禄4年2月16日の寄進状(同前後1)によれば,福島院高野村の地で法華六十六部沙門の真如房が勧進を行っている。永禄6年の頃,島津氏と肝付氏は櫛間の地を争っていたが,この年とみられる5月2日北郷時久書状(旧記雑録後1)には,「福島浦」「都井」で多大の戦果をあげたと記す。この福島浦とは現在の串間市の福島川が海に注ぐ地域一帯をさすものであろう。しかし,この後,飫肥から攻める伊東氏と志布志方面から攻める肝付氏のために島津忠親は苦境に陥り,永禄11年7月19日には島津忠親と肝付氏との和議が成立,福島は肝付氏に与えることとなり,忠親は都城へと去った(北郷時久日帳など/旧記雑録後1)。その後,天正4年8月,島津義久は「福島・志布志」を肝付氏から回復した(樺山紹釼自記/同前)。その後,天正5年,伊東・肝付両氏は福島に集結したが,島津氏の軍勢の前に敗れ,福島は島津氏の手中に帰した(箕輪覚書/同前)。天正8年6月の肥後水俣陣立日記(旧記雑録後1)には櫛間の地頭として伊集院久治が見えるように,福島の地に地頭衆中制がしかれたことがうかがえる。天正6年11月の大友氏との耳川合戦において「福島衆」も島津方として合戦に参加している(耳川合戦日記など/旧記雑録後1)。天正11年5月21日,宮崎地頭上井覚兼は,遊行上人が来月福島に来着することになったため,その準備を調えるように,清武・田野・穆佐【むかさ】・蔵岡に命じている。また,天正11年9月6日,福島地頭伊集院久治は上井覚兼に八代出陣のあいさつで訪ねており,同年10月7日の肥後堅志田攻めの際,福島は上井覚兼の指揮下にあった(上井覚兼日記)。天正15年,島津氏が豊臣政権に敗北して,福島は改めて,高城【たかじよう】・高鍋とともに秋月筑前守に給与されることとなった(勝部兵右衛門聞書/旧記雑録後2)。そして,天正16年8月5日豊臣秀吉知行目録(秋月文書)では,櫛間400町は秋月種長に宛行われている。なお,天正17年5月15日島津竜伯条目(旧記雑録後2)には,福島に秋月氏が滞留していることに対して家中の団結を求めていることが見え,所領の収公の混乱がうかがえる。最後に,文化史的にみると,「忠富王記」明応7年9月23日条には,卜部兼倶は,「日向国宮崎郡福島霊神」の神号を神祇伯の忠富王にあっせんしており,福島の十三所明神と吉田神道の濃厚なつながりをみてとることができる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7460746