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方財島村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。日向国臼杵【うすき】郡のうち。延岡藩領。「日向地誌」には,「元禄十五年日向五郡村形覚書ニ本村ノ名号見エス,蓋シ元岡富村ノ字地ニシテ元禄ノ後一村ヲナセシト想ハル」とあり,当村は元禄年間以後に岡富村から分かれて成立したとしているが,明治22年の「東臼杵郡新町村区域調」(県古公文書)には「現村二村ノ内方財島ハ貞享五年岡富村ヨリ分離独立ス」と記されている。ただし,「寛永11年差出」(国乗遺聞),元禄11年「日向国覚書」,延享4年「拝領諸村高帳」,「天保郷帳」「旧高旧領」などの郷帳類には村名・村高の記載がなく,文化12年の「村々本新高書出」(明治大学蔵内藤家文書)に岡富村の村高2,027石余の内として方財島3斗8升余と見えることから,江戸期は公的には岡富村の内として把握されていたと考えられる。安永7年4月5日,藩主内藤政修は方財島で砲術を視察した(宮崎県史/県古公文書)。また,当地は藩主の参勤交代に際し乗船地とされ,天保7年の藩規則改正によれば,5月初日の藩主政順の参勤交代の乗船手続きについて,まず当役1人ほか支配郷士,大庄屋らが紺屋町川端で藩主を見送り,当役の1人は方財島に出向して浜沙瀬下で藩主を待って乗船後に挨拶をし,代官・御徒目付は東海へ宿を手配し,翌朝出帆後1番合図で方財島洲先に回り,乗船が通過したら敷物をはずして平伏することになっている。文化7年4月7日,幕府天文方伊能忠敬一行が当地を訪れて測量を行っている(伊能忠敬測量日記)。弘化2年3月19日には,本草学者賀来飛霞らが薬草の採集に訪れている(高千穂採薬記)。神社は大将軍社があり,明治5年稲荷神社・蛭子神社を合併して方財神社と改めた(明治5年管内小社合併社号改称御届/県古公文書)。明治2年の竈数石高人別調帳(明治大学蔵内藤家文書)には記載がない。同4年延岡県,美々津県を経て,同6年宮崎県,同9年鹿児島県,同16年からは宮崎県に所属。同17年東臼杵郡に属す。明治6年の学制施行により第5大区第26番中学区に所属した。「日向地誌」の著者平部嶠南が当村に調査に訪れたのは明治12年4月29日で,同書によれば,村の規模は東西約5町・南北約12町,東南は海浜に至り,西は岡富村・粟野名村,南は出北村,東北は川島村と接し,宮崎県庁からの里程は北へ約22里23町,地勢は「東滄海ニ面シ,西ヨリ北ニ繞リ五ケ瀬川ノ下流ヲ帯フ,闔村平坦,運輸便利,唯薪芻ハ足ラス」と見え,地味は「其田悉皆砂土,其質下ノ上,畑ハ浅黒土,砂土雑ル,其質上ノ中,水利ハ便ナラス,水害多ク,且時時潮風ノ害アリ」とある。また,税地は田1町余・畑25町余・宅地7町余・新開試作畑1町余・新開場1町余などの計39町余,無税地は計2町余,官有地は山林6反余・海岸空地17町余などの計18町余,貢租は地租金192円余・雑税金102円余の計295円余,戸数173(うち社1)・人数769(男398・女371),馬62,舟74。学校は地内中央に人民共立小学校があり,生徒数は男40。民業は農業と漁業を営む。物産は駒20頭・鰹500尾・鰺5万尾・鰯24万尾・鯛600尾・小鯛1,500尾・魳2,000尾・鰣2,000尾・烏賊2,000尾・瓜1万8,000顆・茄子4万5,000顆・大豆5石・黄瓜1万顆・蘿蔔8万本・蕃藷1万2,000貫・真芋8,000貫・櫨子200貫・酒20石と記される。明治21年の人口878,反別は田1町余・畑31町余・宅地8町余・山林1反余・雑種地26町余の合計67町余,諸税および町村費の納入額は国税216円余・地方税209円余・町村費151円余(郡行政/県古公文書)。明治22年岡富村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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