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真方村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。日向国諸県【もろかた】郡のうち。鹿児島藩直轄領。小林郷に属す。小林地頭の所在地で,地頭仮屋は村内上ノ馬場にあった。当村名の史料上の初見は慶長19年7月19日の八王子権現社の知行目録で,「日州小林真方村」とある(永井家文書)。村高は,寛文4年「日向国諸県郡村高辻之帳」および元禄11年「日向国覚書」ではともに205石余,「三州御治世要覧」(宝暦5年本)では1,593石余,「天保郷帳」では205石余。「旧高旧領」では1,918石余。寛文4年「日向国諸県郡村高辻之帳」,元禄11年「日向国覚書」,「天保郷帳」には当村とは別に小林村703石余と大豆別府【でずのびゆう】村295石余が記されるが,鹿児島藩の行政上の史料にはほとんど見うけられず,当村の一部として扱われていた。「日向地誌」は,はじめ当村と大豆別府村は各々独立した村であったが,元禄年間頃に合併したとする。「三州御治世要覧」と「旧高旧領」で示された当村の村高はこの2か村を含んだものであり,しかも草高で表示されているため,表高の記される各郷帳と大きな違いが生じているのである。弘化2年の「小林諸在高頭門付覚帳」では高1,320石余(田1,120石余・畑201石余),門50(大塚家文書)。幕末は門数49,家数78,人数577,用夫180(小林誌)。慶応4年の「小林万取調帳」によれば,百姓79,総人数463,高1,884石余,用夫180(うち名主2・小触2・用水下役3)。地内の上之馬場・下之馬場・向之馬場は郷士集落であった。「西諸県郡誌」によると,当村には小林門・前田門・杉薗門・杉鶴門・中薗門・坂元門・中村門・倉薗門・内門・北之薗門・下之村門・松之元屋敷・有尾屋敷・窪谷屋敷・西窪門・亀沢屋敷・正学門・水流門・鵜戸門・西之村門・西之薗屋敷・橋之口屋敷・殿所門・市谷門・和田門・松尾屋敷・大豆別府門・榎田門・保楊枝門・宮之下屋敷・中之神門・南正覚門・吉丸門・吉村門・上之神門・木切倉門・松ケ迫屋敷・宮之窪門・大部薗門・有留門・青木門・内之倉門・吉永門・東窪門・今屋敷・海蔵門・田中門・吉之薗門・白ケ沢門の49門があった。神社は八王子権現社があり,「三州御治世要覧」には「八王子権現 此宗麓宗廟之由」とある。また「三国名勝図会」には「松齢公 飯野御在城の時,御参詣」として,祭礼は9月9日と11月中丑日で,当村と北方村・東方村の鎮守と記されている。寺院は下之馬場の真言宗中島山普門院観音寺,向江馬場の曹洞宗福城山昌寿寺,向江馬場窪谷の同宗興福寺,ほかに天台宗愛宕山十輪院円岳寺があった。観音寺は鹿児島大乗院の末で本尊不動明王,開山恵誉法印。昌寿寺は飯野長善寺の末で本尊聖観音,開山環室和尚,興福寺は飯野長善寺の末,円岳寺は鹿児島南泉寺の末。いずれも明治3年廃寺となった。江戸期には長者井手などによる開田が行われた。また藩農政の一環として人移策が展開され,安永5年から天明6年には当村にも薩摩国川辺郷から15門・51人が入植している。明治4年鹿児島県,都城県を経て,同6年宮崎県,同9年鹿児島県,同16年からは宮崎県に所属。同年北諸県郡,翌17年からは西諸県郡に属す。明治5年第5大学区第20番中学区第79番小学が開校し,同8年小林小学と改められた。「日向地誌」の著者平部嶠南が諸県郡を調査したのは明治13年で,同書によれば,当村の規模は東西約20町・南北約1里18町,東・北は東方村,西は北西方村,南は細野村,東南は水流迫村と接し,宮崎県庁からの里程は西へ約13里25町,地勢は「南一分ハ原野田圃,北二分ハ岡阜起伏,田圃其間ニ交錯シ,岩瀬川其中央ヲ流ル,運輸便ナリ,薪芻亦乏シカラス」と見え,地味は「其田大約黒苦土,其質中ノ上,畑亦田ト同シ,其質中ノ中,水利二分ハ便ナリ,一分ハ便ナラス」とある。また,税地は田172町余・畑373町余・宅地40町余・切換畑17町余・山林38町余・原野7町余・芝地2反余・藪8町余の計658町余,無税地は計1町余,官有地は山林8反余・原野57町余・藪6町余・池9反余などの計65町余,貢租は地租金2,481円余・雑税金405円余の計2,887円余,戸数275(うち社1)・人数1,281(男641・女640),牛215・馬519,村内の字地別戸数は上ノ馬場60余・下ノ馬場50余・向馬場40余・鵜戸ノ馬場4・長者13・年神10・保揚枝原15・一谷10・高山30余・切倉5・山宮20・新田場14・大豆別府20。学校は地内上ノ馬場に人民共立小学校があり,生徒数は男110。戸長役場は新馬場にあった。神社は上馬場に愛宕神社がある。民業は皆農業に従事し,農間には工業に50戸,医業に2戸,牛馬売買に5戸が従事した。物産は,駒30頭・犢5~6頭・鶏1,000羽・糶400石・油菜子140石・鶏卵2万5,000顆・串柿550聯。さらに,川は石冰川・浜瀬川が流れ,用水は瀬戸ノ口溝・長者溝を利用し,道路は宮崎往還・須木往還が通り,古跡として三ツ山城跡・星合杉・昌寿寺跡・観音寺跡・円岳寺跡・小林地頭宅地が記される。明治15年村内に真方村外三ケ村戸長役場が設置され,当村のほか東方村・南西方村・北西方村を管轄したが,同17年旧小林郷が1つにまとめられて細野村繰通に置かれた細野村外八ケ町村戸長役場に属すことになった。当村の地租改正は,明治10年の西南戦争後に本格的に行われ,地券が交付されたのは同14年から同16年にかけてである。また,同18年から同21年にかけて一斉地押が各村の惣代の立会のもとに行われ,それによると当村の土地総反別658町7反・田172町2反・畑373町9反・宅地40町7反であった。同21年の戸数314・人口1,235,反別は田171町余・畑391町余・宅地40町余・山林42町余・原野19町余・雑種地80町余の合計746町余,村有財産は山林3町余があった(郡行政/県古公文書)。明治22年小林村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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