100辞書・辞典一括検索

JLogos

65

宮崎市(近代)


 大正13年~現在の自治体名。宮崎町・大淀町・大宮村が合併して成立。合併各町村の6町12大字を継承。市庁舎ははじめ県庁(橘通東1丁目)東側にあった旧宮崎町役場をあてたが,市政事務の増加にともない狭隘となり,昭和8年3月に県有の物産陳列所跡(現在の宮崎商工会議所の位置,橘通東1丁目)に移転した。戦後の同22年12月7日早暁の火災で類焼したため,翌々年に木造モルタル2階建て・敷地約6,000m[sup]2[/sup]のモダンな庁舎(現在の別府児童公園,広島1丁目)を新築,当時火災による市街地焦土化の中で市民に復興の意欲を起させる象徴的な事業であった。市の人口が同35年の国勢調査で15万人を超えたのを機会に近代都市宮崎にふさわしい庁舎建造が企画され,市街地が大淀川北岸の橘通りや上野町に商店が進出して南岸の中村町などが衰退しつつあることにも着目して大淀河畔を適地と定め,橘通西1丁目に敷地8,366.69m[sup]2[/sup],建物1万611.76m[sup]2[/sup],地上5階・地下1階の鉄筋コンクリート造り,総工費3億4,525万円で同38年12月に完成開庁して現在に至っている。市制施行に関しては宮崎町が県庁所在地であることから明治末期よりおこっていたが,大淀川を挟んで宮崎郡と北那珂郡に分かれていたことや宮崎町の対岸大淀町など河南地方に独立自治体の気運が強かったなどからその実現の努力が失敗に終わっていた。大正12年に国鉄日豊本線が開通して県の中心都市としての重要性が生まれたことが急速に周辺町村を併合して市制発足への機を見出したものといえる。昭和7年檍村を合併し,4大字を継承,昭和初期の土地区画整理事業実施により昭和2年12大字を廃して135町が新設,同8年4大字を廃して9町を新設,同18年大淀川河口右岸の赤江町を合併して5大字を継承,合計150町5大字を編成。市制施行時の産業別人口は,商業6,600人(31.7%),農業4,121人(19.8%),工業3,912人(18.9%),ほかに公務・自由業,交通業など(県統計書)で商業都市的性格をもっていた。その後は隣接町村のあいつぐ編入で農業都市へと変転していった。昭和10年の総生産額877万9,288円,うち農産143万6,663円・蚕糸385万848円・畜産20万1,388円・林産64万992円・水産9万5,910円・工産251万2,912円・鉱産4万575円,耕地面積2,540町1反,うち田1,563町9反・畑976町2反(県統計書)。昭和25年度の総生産額15億9,123万円余,うち農産4億9,989万円余・養蚕58万円余・畜産3,398万円余・林産2,428万円余・水産7,424万円余・工産9億5,824万円余,同年の民有有租地のうち田2,355町8反・畑1,287町・宅地570町・池沼1町6反・山林640町1反・原野146町9反,総農家数3,939戸,うち専業農家2,318戸・兼業農家1,621戸,農用地総面積3,238町1反,うち田2,098町1反・畑895町4反・樹園地31町・その他213町6反(県統計年鑑)。昭和28年の農業1万7,630人(34.4%),卸売・小売9,273人(18.1%),サービス業6,265人(12.2%),製造業5,568人,公務4,014人などである。サービス業の比率が相当高いのは観光事業が推進されてきたことを示し,公務・自由業が市発足以来7%台を維持しているのは県庁所在地である故であろう。国内経済の歩みを反映して昭和30年以降は第1次産業から他の産業へ労働力が移行していく。昭和35年の15歳以上就業者総数5万6,917のうち農業1万6,319・卸業および小売業1万2,482・サ―ビス業9,270など,農家総数7,470戸,うち専業農家3,724戸・兼業農家3,746戸,経営土地面積は田3万8,352a・畑1万7,466a・茶園18a・果樹園901a・桑園74a・山林27a,同36年の民有有租地のうち田4,227.5ha・畑2,336.9ha・宅地887.9ha・池沼2.6ha・山林1,563.1ha・原野425.6ha(県統計年鑑)。昭和50年の民有地のうち田4,416ha・畑2,343ha・宅地1,880ha・池沼4ha・山林2,251ha・原野548ha,15歳以上就業者総数9万8,568のうち農業1万3,856,林業・狩猟業323,漁業・水産養殖業568,鉱業73,建設業8,775,製造業8,084,卸売業・小売業2万7,676,運輸通信業6,090,サービス業2万2,939,公務5,370,農家総数6,458戸,うち専業農家1,817戸・第1種兼業農家1,523戸・第2種兼業農家3,118戸,経営耕地面積は田35万480a・畑10万3,991a・樹園地4万8,060a,昭和48年度の市民所得は総額2,038億円余,うち第1次産業58億円余・第2次産業296億円余・第3次産業1,684億円余(県統計年鑑)。このような経済情勢のなかで,市行政は「太陽と緑の美しい自然」を守り育てながら,昭和45年計画のマスタープランに沿って,生産力のある,公害のない,観光商業の街造りと,健康で物心両面に豊かで快適な住みよい近代田園都市を目指して進展しつつある。市内の交通は市内バスに頼ってきた。大正13年に延岡の臼井自動車が市内の旭通~宮崎神宮にバスを走らせたのに始まる。同15年4月に岩切章太郎がこれを買収して宮崎市街自動車を設立して箱型乗合自動車4台・タクシー2台で大淀~宮崎神宮を運行,昭和4年12月に宮崎バスと改称して,同6年には東京「青バス」,別府「亀の井バス」に次いで定期遊覧バスの免許を受けて,全国3番目の事業が注目をあびた。昭和8年3~4月に祖国日向産業大博覧会が開催された時は宮崎神宮―青島―鵜戸神宮のコースなど遊覧バスが好評で,その後の観光バス隆盛の基礎をつくったといわれる。戦時の昭和12~20年の間に県内のバス会社と合併が進み宮崎交通による全県一社の経営となった。同30年代から市内バスの輸送実績は急速に伸び同33年から同43年の輸送は1.83倍となっている。その後はマイカー激増などで減少傾向にあり,同50年の市内線実績は輸送人数1,266万6,564人,走行キロ343万8,234km,バス台数78で昭和33年の1.43倍である。マスコミ関係では,市制成立を機に大阪朝日・大阪毎日新聞社が支局をおき,地元の新聞は昭和2年9月に仲道政治が「宮崎時事新聞」を創刊している。その後漸次新聞の発行は増加していったが,昭和15年11月に地元紙9社が合併して「日向日日新聞」が生まれ,同36年題字を「宮崎日日新聞」(社屋は高千穂通1丁目)に変更して県・市の身近な報道活動が住民に親しまれている。放送はNHK宮崎放送局(JOMG)が市内鶴島町に開設してラジオ放送を始めたのが昭和12年4月で,テレビ・FM放送に発展するとともに同42年12月放送会館を江平西2丁目に新築して移転した。民放のラジオ宮崎(RMK)は昭和29年7月に開局,テレビ放送に至って宮崎放送(MRT,下北方町)と社名を変更した。また同44年5月祇園2丁目にテレビ宮崎(UMK)が創立して,3局合わせて県民の視聴に供している。文化施設の初期は市制発足前年の11月に完工した県公会堂(橘通1丁目)が長い間,県・市民にとって唯一の文化ホールとしての役割を果たしてきたが,昭和43年に県庁別館建設のために解体された。県立図書館(橘通1丁目)は明治35年開館後,大正4年新館を建設,昭和24年増改築して自動車文庫「やまびこ」が県内を巡回するなど活動していたが,同34年4月5日に隣接の町村会館出火で類焼,蔵書1万5,000冊などを失った。同36年4月に新館が完成して同59年現在は蔵書数28万余,利用者は年間10万人余である。宮崎市民会館(橘通西1丁目)は市庁舎正面の西隣に昭和40年5月開館,地上4階・地下1階,敷地2,961.5m[sup]2[/sup],建坪2,462.3m[sup]2[/sup],固定席1,996・立見席169の規模で,各種音楽会・舞踊・演劇など連日多彩な行事が開催されている。県立総合博物館(神宮2丁目)は県内の考古学・歴史・民俗・美術などに関する総合文化施設として美術館・県民文化ホールと合わせて昭和46年2月に開館した。一般市民の利用するスポーツ施設は紀元2600年記念事業でできた県営総合運動場(牟田町),置県80年事業で昭和43年竣工の県体育館(大和町)は九州一の定評をうけている設備で,また137万8,000m[sup]2[/sup]の巨大な広さをもつ木花総合運動公園(大字熊野)は市街地の南部にあたる日向灘に面した風光明媚な場所にあり,昭和54年の宮崎国体の主会場となった。昭和2年8月に暴風雨により大淀川が氾濫し浸水家屋多数,市の動脈である橘橋が流失した。陸軍熊本工兵隊の出動で本町橋が60日間で架設されて市民に感謝された。同3年8月花ケ島にあった宮崎競馬場の移転阻止の群集が暴動をおこし,12月には県女子師範学校を都城市に移す議案に反対して県議会場にポンプ放水する騒ぎで撤回させるなど市民の行動は激しいものがあった。昭和10年代の戦時体制の中で国策に沿って宮崎市は「古事記」「日本書紀」にある神武天皇東征の故事にちなんで全国的注目をよび,15年の紀元2600年記念行事で2月には宮崎神宮で全国武道大会を開催,12月に市北西部標高60mの高台にアジア各地の石材も集めた「八紘之基柱」(現在の平和台,下北方町)が完工した。昭和20年3月に赤江町の飛行場が爆撃をうけて以後,終戦8月までに計19回にわたって激しい空襲をうけた。戦災による被害は戸数2,394,死者167,負傷者16で,繁華街の橘通・旭通・高千穂通・松山町・江平町は廃墟と化した。戦後復興は市庁に復興部が特設されて昭和22年から5か年計画で,旧軍隊の資材の活用や特産の千切大根・甘藷・カツオ節などを見返り物資として提供しながら努力がなされ,土地の区画整理,道路の拡張,大淀川河岸の緑地化など市街地復興工事が進められた。終戦前後の市立の学校は国民学校9・青年学校2であったが,新制6・3制義務教育実施で宮崎・檍・大宮・大淀・赤江の5新制中学校が誕生,県立宮崎中学校・第一高女・商業学校・女子商業学校を併合して宮崎大宮高校,工業学校・第二高女・農学校による宮崎大淀高校が開校した。また旧宮崎農林専門学校・師範学校・青年師範学校・工業専門学校を母体として宮崎大学の農・学芸(現教育)・工学部(大学本部は船塚町)が昭和24年5月に設立された。その後の学校統廃合や新設などによって昭和50年現在は小学校26(本校24・分校2)・中学校15(本校13・分校2)・県立高校9と県立盲学校1・県立養護学校3・私立高校7と大学1が市内にある。昭和29年・30年は観光宮崎の始動といえる。昭和29年10月から52日間にわたって催された南国宮崎産業観光大博覧会は県・市の観光面に飛躍する契機をもたらし,観光客数は前年の2.25倍にあたる73万4,000人に及んだ。同年10月国内唯一の航空大学校開校についで赤江町の旧軍用飛行場跡に宮崎空港が開設されて空からの観光客を迎えるようになり,同30年6月には市内木花の加江田川河口から南へ都井岬(串間市)に至る約90kmの日南海岸が国定公園に指定,同年夏から宮崎交通が夜の青島を訪ねる納涼バスの運転を開始した。また青島に隣接する「こどものくに」はバラ600本,7万木のハマユウの道など年中花いっぱいの日本一を誇る造園が整備されたり,市北西部の高嶺にある平和台公園の一角に「はにわ園」が設けられるなど市内観光の拠点が次々と生まれていった。昭和40年NHKテレビ小説「たまゆら」の放送は,交通網の進展と観光開発の波に乗って約10年間は新婚客のメッカとして全国に名を広めた。今日に至る宮崎の発展は観光都市としての完成を目ざして進んできたといえるが,この道は今後も推進されるであろう。同時に県都として政治・経済・文教の中心地である役割も担っている。市全体の発展は学校の建設や住宅団地の開発をともない,市南部の月見ケ丘団地に始まり,北部の平和が丘,西部の大塚台・小松台・生目台団地など山地造成による住宅街が着々とマンモス団地化しつつある。戦後,地方自治体拡充強化の要望から隣接地域の編入申入れが進み,昭和26年瓜生野村・倉岡村・木花村・青島村を合併,合併各村の13大字を継承,同29年清武町と境界変更,同32年住吉村を合併して5大字を継承,同38年生目村を合併して8大字を継承。また,戦災復興土地区画整理事業のほか,都市集中化に伴う住宅不足により,市街地周辺の農村へ宅地が急速に広がったため,昭和20年代後半より,土地区画整理事業が実施され,さらに同41年より住居表示実施,現在230町31大字を数える。世帯数・人口は,昭和10年1万2,925・6万4,729,同25年2万2,658・10万3,443,同35年3万9,072・15万8,328,同45年6万765・20万2,862,同55年9万1,283・26万4,855。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7460936