山田村(近世)

江戸期~明治22年の村名。児湯郡のうち。佐土原【さどわら】藩領。村高は,元和3年(古高)には1,211石余(御検地新古目録/日向国史下),元禄11年「日向国覚書」にも1,211石余,寛政7年(新高)には1,281石余(同前),「天保郷帳」にも1,281石余,「旧高旧領」では1,615石余。「御検地新古目録」(日向国史下)によれば,古高と新高の増高69石余はすべて畑高の増加であるという。神社は,西北隅の宮田の西山巓に伊弉冊尊を祀る山田神社があり,また海雲寺の南には山王社があったが明治4年山田神社に付祭されたという(日向地誌)。寺院は,山田神社の東麓に禅宗大中寺末祇園寺,祇園寺の西南4町余に宗派不詳の谷ノ坊,谷ノ坊の南5町余に同じく宗派不詳の高瀬ノ坊,高瀬ノ坊の東南4町余に同じく宗派不詳の岡ノ坊,岡ノ坊の南1町余に禅宗大中寺末海雲寺,山王社の西南1町余に宗派不詳の池ノ坊があったが,祇園寺・海雲寺は明治4年に廃絶し,他の4坊も廃毀されたという(同前)。同年佐土原県,美々津県を経て,同6年宮崎県,同9年鹿児島県,同16年からは宮崎県に所属。「日向地誌」の著者平部嶠南が当村に調査に訪れたのは明治11年5月15日で,同書によれば,村の規模は東西約1里・南北約1里,東は荒武村,西と南は諸県【もろかた】郡八代北股村,東南は諸県郡三名村,北は下三財村と接し,宮崎県庁からの里程は西北へ約6里26町,地勢は「三面ハ岡阜滲差,処処ニ迫田多シ,唯北部ニ三分ノ平田アリ,運輸半ハ便ナリ半ハ便ナラス,芻秣乏シカラスト雖モ薪炭足ラス」と見え,地味は「其田六分真土,三分ドキ土赤白,一分砂土,其質上ノ下,畑ハ八分白ドキ土,二分黒ホヤ土,其質中ノ上,水利ハ便ナリ,但シ迫田ハ往々旱災ヲ免レス」とある。また,税地は田153町余・畑92町余・宅地15町余・山林15町余・原野34町余・芝地9反余・藪2町余の計314町余,無税地は1反余,官有地は山林4町余・芝地6反余などの計5町余,貢租は地租金2,087円余・雑税金579円余の計2,666円余,戸数209(うち神社8)・人数786(男401・女385),牛22・馬192,村内の字地別戸数は袋ケ島4・河原18・堂ノ元2・仮屋2・羽根田47・後河内26・洋河内53・中山50。学校は荒武村と共同の人民共立小学校が山田神社の東麓にあり,生徒数は男92・女28。戸長役場は西北隅の宮田にあった。民業は皆農業を営み,農間に工業に4戸,牛馬売買に1戸が従事した。物産は糶550石・大豆50石・麦20石・楮皮400貫。地内の湖沼に吉田カ迫池・松カ谷池・南カ迫池・三段田上ノ池・三段田下ノ池・母袋迫池・堂面池があり,川は三財川が流れ,用水に醤油通溝・桑ノ木東溝・桑ノ木西溝・堂面溝・三段田溝・母袋迫溝・南カ迫溝・吉田カ迫溝・中津留溝があると記される。明治21年の戸数190・人口788,反別は田153町余・畑93町余・宅地15町余・池沼1畝余・山林16町余・原野16町余・雑種地22町余の合計318町余,諸税および町村費の納入額は国税2,193円余・地方税773円余・村費133円余,村有財産には山林5町余などがあった(郡行政/県古公文書)。明治22年都於郡【とのこおり】村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7461036 |





