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阿多郡


建久8年の薩摩国図田帳によれば,阿多郡250町,そのうち寺社領54町6反,公領195町4反で,公領は久吉145町4反,高橋50町から成り,いずれも「没官御領地頭左女島四郎(鮫島宗家)」とある。すなわち,忠景追討後当郡は忠景の女婿阿多四郎宣澄の所領となっていたが,宣澄は平家謀反の時の張本の一人とされて追放され,建久3年8月25日東国御家人鮫島宗家に地頭職が与えられたのである。その後宗家は阿多郡を二分して,北方(田布施郷・高橋郷)を嫡子家高に,南方(阿多郷)を次子宗景に譲った。貞永元年11月28日関東下知状によれば,その境となった観音寺大門より高橋薬師堂の前を過ぎて浜に通ずる道には南北の2路があって相論が生じたが,南路を境界とするよう裁定された。北方地頭家高(行願)は領内の新田八幡宮領に対する非法のため,宝治元年10月25日関東下知状によって改易され,その後同地頭職は二階堂行久に与えられた。行久の娘忍照の子泰行は異国警固のため正応5年11月7日関東御教書によって阿多郡に入部した。嘉元3年6月南方地頭鮫島光家申状によれば,二階堂氏は鮫島氏の所領「南方内田畠在家以下所々」を押領したと訴えられ,また文保3年6月伊作庄雑掌等申状によれば,同氏は伊作荘を「打越往古境,去正安三年以来令押領」と訴えられた。入部の遅れた二階堂氏は所領の知行に当たって近隣の領主と摩擦が絶えなかったのである。忍照は延慶2年1月6日置文によって,当郡北方内の田布施郷を惣領泰行に,高橋郷を庶子に譲ったが,泰行の子行雄のとき,惣領に弁ずべき高橋郷の幕府御所用途負担を庶子定氏が未進したので,元徳元年12月25日,定氏の所領は惣領行雄に付与された(阿多郡史料/県史料集)。南北朝期,南方地頭鮫島家藤(蓮道)は終始南朝方として,北方地頭二階堂氏はおおむね北朝方にあって戦ったが,応安7年6月島津伊久代重申状によれば,「薩摩国闕所本宮方之仁等跡」として「鮫島掃部助跡阿多郡半分百五十町」「二階堂隠岐守跡阿多郡半分百五十町」とある(藤野氏文書/旧記雑録)。室町初期,守護島津元久は応永10年9月1日宛行状をもって伊作氏に当郡を与え(伊作譜/旧記雑録),その協力を求めて,同13年二階堂氏を放逐した。文明6年行脚僧雑録によれば,田布施に守護島津忠国の庶長子友久(相州家)の子運久,高橋に島津蔵人幸久,阿多に桑波田右馬助が配置されている(旧記雑録)。後に高橋も相州家の所領となり,さらに永正9年6月運久は阿多城を攻め降して,阿多郡一円相州家の所領となった(雲遊雑記伝/県史料集)。文亀元年伊作家島津忠良(日新)が運久の後嗣となり,伊作・阿多両郡を併領し,三州統一の基礎を固めた。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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