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大隅国


関ケ原の戦で西軍につき敗北を喫した島津氏の処遇をめぐって,1年半余の折衝が続き,ようやく慶長7年4月徳川家康は,薩摩・大隅・日向諸県郡の島津氏の旧領を安堵した。こうして大隅国は鹿児島藩の一部となり,それは幕末まで一貫して変わらなかった。幕府が元和3年9月5日初めて下した領知判物によると,大隅国は17万833石余とあり,以後この判物高が一貫して踏襲されている。なお正保3年12月12日の領知高目録には郡別の高があり,それと寛文4年以降の郡村高辻帳により,大隅国内の郡別村数・石高を示すと次のとおりである。曽於郡(63村・4万3,884石)・菱刈郡(13村・9,986石)・桑原郡(32村・2万1,824石)・始羅(姶良)郡(39村・2万6,643石)・肝属郡(38村・4万2,015石)・大隅郡(32村・2万192石)・熊毛郡(9村・5,205石)・馭謨郡(4村・1,080石)以上8郡230村である。なお享保6年の大隅国内の田畑面積は2万4,307石余で,田1万710町余(44%),畑1万3,596町余(56%)と,畑地が田地より12%多い(薩摩大隅日向諸県郡御領内田畑町歩男女人数公儀江被書上候帳面写)。ただこの面積については,判物高と歩調を合わせるため,藩の幕府への提出書類に作為が加えられ,充分な信頼をおきがたいが,それは判物高の郡村高辻帳にしても同様で,大体の傾向を把握するには差支えあるまい。郡別にみると大隅・曽於両郡では畑地割合が異常に高く,桑原・馭謨両郡でも同様の傾向を示している。それに対して肝属郡は田畑ほぼ匹敵し,菱刈・始羅・熊毛郡等は田地割合がずっと高い。概して大隅半島北部地方が畑地割合の高い地方であることを示している。しかし鹿児島藩の行政機能としては,この郡村よりむしろ郷の存在が重要であった。これは鹿児島藩が近世になっても藩士の城下集住を行わず,各郷(天明4年以前は外城【とじよう】と称した)に分散居住させて,この郷士層に郷村の行政を管掌させるという郷士制度を採用したからである。しかも郷には藩の直轄地と,島津氏一族やそれに準ずる上級藩士に知行地として与えた私領とがある。前者には地頭を任命して郷政を管掌させたので地頭所という。郷の分合廃置がしばしば行われ,その数は一定しないが,元文4年私領重富,延享元年私領今和泉をおいて以来,地頭所と私領を合わせた郷の数は,領内総計113と一定した。大隅国内では地頭所35,私領7,合計42か所で,郡別の郷名と各郷の文政年間の村数を掲げると次のとおりである。大隅郡(桜島19・牛根3・私領垂水9・大根占3・小根占5・佐多4・田代2),肝属郡(内之浦3・高山7・姶良3・大姶良7・私領新城1・私領花岡2・鹿屋5・串良10・高隈2・百引2),曽於郡(私領市成2・恒吉4・末吉7・財部3・福山2・敷根3・国分19・清水5・曽於5),桑原郡(踊6・日当山4・横川3・栗野7・吉松5),菱刈郡(湯之尾2・馬越3・曽木3・本城4),始羅郡(溝辺5・私領加治木6・帖佐11・私領重富4・山田6・蒲生8),熊毛郡(私領種子島18),馭謨郡(屋久島4,これに小村16村が付属,ほかに口永良部村1村を加える)の8郡237村(屋久島5村を含む)である。このうち馭謨郡は屋久島奉行の支配で他地域と支配系統を異にしている。また上記237村には菱刈郡曽木郷永野村は薩摩国薩摩郡,始羅郡重富郷触田村は薩摩国鹿児島郡,曽於郡財部郷下財部村が日向諸県郡所属というごとく大隅国外の村が3か村あるのに対し,薩摩国伊佐郡大口郷の市山・花北の2村が大隅国菱刈郡に所属しているため,差引村数は1村減じて236村となる。なお同じ大隅国内で曽於郡国分郷の山村以下11村が桑原郡の内というごとき入り組みもあった。上記の判物高は幕府公認のいわゆる表高で,判物高は藩から提出した郡村高辻帳をもとに定めたものである。鹿児島藩領に対する幕府の検地は行われたことはなかったが,藩は慶長・寛永・万治・享保の4度にわたり領内の総検地を行い,その他たびたび一部の検地を行った。これらは幕府の行う検地に対し内検と称しており,内検による石高を表高に対して内高という。大隅国の内高をみると,慶長20万1,311石,寛永19万2,710石,万治20万3,463石,享保25万5,085石(県史)で,常に表高より多く,享保の内高に至っては前記の判物高(17万833石)に対し8万4,252石すなわち49%の増加である。それも寛永内検から享保内検までの100年間に32%余増加しており,これは享保内検から次の文政9年の現在高(薩藩政要録,26万6,534石)まで4.4%余の増加であるのに比べると,藩政時代の増加は享保以前が著しいことを示している。増高の原因はいろいろあろうが,新田開発による耕地面積の増大も大きな理由である。大隅国での新田開発をみると,姶良菱刈方面で万治元年から寛文4年ごろの思川上流の姶良郡帖佐触田新溝開削(昭和初年の灌漑面積330町余)をはじめ,寛文元年~4年の国分新川開削,同6年の国分新田(高5,000石余)の開発を行った。また万治元年から寛文3年にかけ加治木木田村の用水工事で新田6,000石,寛文年間国分方面で松永用水および平溝の開削工事により霧島川,手籠川から引水して,昭和初年にはそれぞれ396町,143町を灌漑していた。元禄6年川内川上流の加久藤,真幸,吉松に至る用水路工事で吉松地区200数十町を灌漑,正徳元年から享保元年にかけ安楽川から用水を引く水路をつくり宮内原新田6,000余石(4,306石とも)を得,この用水路の末端に寛政7年から同12年にかけて浜之市新田を開いた。また宝永元年には菱刈田中村用水路工事で150町を得,同3年清水郡田【くりた】川堰堤工事で300町を灌漑,弘化2~3年から嘉永4年国分小村新田97町を開発した。大隅半島方面でも,寛文元年から同11年にかけ高山郷の用水工事で高2,000石の新田を開発,串良においても用水工事が行われて寛文4年完成,同5年から12年小根占雄川用水工事で200町の新田を開発,元禄6年から寛保元年垂水井河溝工事で新田200町を得た。また藩は人口稠密な地方から人口不足の他村他郷へ農民を移住させた。これを人配【にんばい】とか人移し,または用夫配【いぶくばり】等といい,万治・享保等の内検の際やその他必要に応じて行った。万治内検の際はくじ引きで全般に人配を行い,とくに菱刈・真幸・庄内表をはじめとした大隅・日向方面,または薩摩国内の過疎地に移した。一般に畑地が多くて田地少なく,しかも人口稠密な狭郷地帯の薩摩半島方面(西目【にしめ】という)から,土地広く人口稀薄な寛郷地帯の大隅半島(東目)・諸県地方への人配が多かったといい,このような労働力の移動が,大隅・諸県方面の内検高の増加に影響していることも考えられる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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