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鹿屋院(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える院名。大隅国のうち。鹿野・鹿野屋・狩野屋とも書く。建久8年の大隅国図田帳には「鹿屋院八十五丁九段」と記され,島津荘寄郡であり,院内に大隅正八幡宮領「恒見八丁」が設定されている。建治2年8月の大隅国在庁石築地役配符も当院を85町9反とし,8丈5尺9寸を割り当てている(調所氏譜祐恒伝/旧記雑録)。建久9年2月22日には,既に日向・薩摩・大隅三国守護と島津荘地頭職を兼帯していた島津(惟宗)忠久が源頼朝から当院弁済使名田を宛行われ(比志島氏家蔵文書/同前),暫時忠久が当院弁済使(荘官)として荘務に携わったが,建仁3年に忠久が比企の乱に縁坐して三国守護・島津荘地頭職を改替されると,同年11月10日領家下文・建仁4年正月18日島津荘政所下文によって島津荘政所の在地有力者たる富山(藤原)義広が弁済使の任についた(栗野士神田橋助右衛門文書/同前)。同時に島津荘地頭職は北条氏一門の名越一族の有するところとなり,当院地頭職も名越氏が相伝した。その後,建暦元年8月4日に在地の有力者肝付【きもつき】一族の伴兼広が弁済使に補任され,寛元2年8月2日には兼広子息左馬允兼賢,建長4年7月には兼賢次男兼世(千寿王丸),弘長元年7月以降は兼賢嫡男左馬允実兼(包)など肝付氏支族の萩原氏が相次いで弁済使に補任された(鹿屋文書/同前)。元徳2年8月の鹿屋院雑掌兼信申状によれば,当院は領家一円所務の地であって弁済使は下地進止権を有し領家の使者と共同して年貢収納を行い,一方,地頭には地頭名が設置されるほか,院内の公田から加徴米を取ることができた(同前)。ところが,鎌倉後期に至ると,肝付氏内部で弁済使職相伝をめぐる相論が頻発したことが,永仁4年11月20日一乗院家御教書・永仁7年2月1日島津荘預所下文・正安元年9月20日吉国奉書(以上旧記雑録)・正中2年10月8日沙弥音阿譲状(長谷場文書/日向古文書集成)などに窺われ,この間隙をぬって地頭名越氏が内検(田地の作・不作,不熟損亡の調査)を妨げ,年貢を抑留するに至った。元徳2年のものと思われる鹿屋院惣地頭代押領田在家山野注文によれば田地32町5段2丈半の下地をはじめ田・畠・在家園・野原・狩倉山など広汎な地域が押領されているほか,荘園支配の重要拠点である当院鎮守の田貫社水田年貢合計2,197石8斗や院内の市である久木本市の地料合計114貫も抑留されている(鹿屋文書/旧記雑録)。南北朝期になると,建武2年10月7日島津貞久(道鑒)が建武政府から当院を含む島津荘大隅方寄郡の預所に補任され(藤野氏文書/同前),続いて大隅国守護として観応2年8月15日足利尊氏袖判下文・延文元年8月6日足利義詮袖判下文によって当院の知行が安堵され(道鑒公御譜/同前),貞治2年4月10日には大隅国守護職とともに氏久に譲与された(氏久公御譜/同前)。一方,荘園制の衰退につれて弁済使職は形骸化したが,北条氏の没落後,当院の地頭職は禰寝氏一族の建部氏が得たらしく,文和2年6月24日付で当院地頭職が隣接する大禰寝【おおねじめ】院・下大隅郡両地頭職とともに建部清成から嫡子三位房清有に譲与されている(禰寝文書)。これより先,観応2年7月17日日向守護畠山直顕感状・観応2年8月建部清増軍忠状・同日付禰寝清種軍忠状などによれば,当時,建部清成と禰寝一族は北朝(足利直冬)方の畠山直顕の手にあって,当院内高隈城に立籠った楡井頼仲与党人らを攻略しており(同前),当院地頭職はその軍忠と関係するものかとも考えられる。しかし正平14年11月27日付の島津氏久感状では,この時,父大隅守護貞久にかわって軍事指揮権をふるった氏久は畠山直顕に対抗して南朝に降り,当院地頭職・弁済使職は田代新左衛門に給与され(田代氏文書/旧記雑録),その後も代々田代氏が島津氏の書下をもってこれら所職を安堵されたことは応永5年12月25日の田代清久譲状に「大隅国守護人嶋津左衛門尉氏久御書下二通 七郎入道道清宛給 又三通 左衛門尉宛給……一鹿屋院地頭職并弁(弁済使)分」とあることから窺われる(同前)。当該期の南九州の国人層の動向は島津氏対反島津氏という形で推移したが,今川了俊(貞世)が応安3年6月,九州探題となり,ついで永和2年8月,島津氏久を排して大隅守護に任じられると反島津勢力であった建部右馬助久清は了俊を通じて永徳2年9月22日に室町幕府から当院の知行を安堵されている(禰寝文書)。田代氏が再び当院地頭職を主張するのは,至徳年間頃以降,大隅守護が島津元久になって以後のことと思われるが,実際には,禰寝氏が当院に知行を保持したらしい。応永7年正月25日には元久が当院内下村・中村池上名の弁分(弁済使得分)を堀の内とともに肝付氏宗家の流れである鹿屋周防守(忠兼)に宛行っている(鹿屋文書)。鹿屋氏は以後も当院下村地頭に補任されるなど,院内の土豪として威をふるった。降って室町期,永享7年12月5日には禰寝直清が島津忠国から当院内「恒見八町」を宛行われている(禰寝文書)。戦国期,元亀4年2月,禰寝重長は島津義久に降り,これと盟約したが,同年5月24日島津家老臣連署奉書によれば,当地が守護領として没収されたことを禰寝氏が愁訴し,島津氏は「御弓箭御成就(島津氏の日向・薩摩・大隅三国統一)之時見合候而,無余儀可為御守護領於在所者,鹿屋之田数程,別所可有御給」と約している(禰寝文書)。慶長5年11月26日には根占重虎がこの約束を盾に目安状を島津氏に捧げたが(同前),当地は結局近世には島津氏領化された。なお,元徳2年の鹿屋院惣地頭代押領田在家山野注文に見える押作田・野原・在家園・狩倉には,明治22年までの鹿屋村の村域を中心に現在の小字名に合致するものが多く見出されるが,それ以外にも谷田原が現鹿屋市北部下高隈町字谷田に,柚木田が同町字柚木原に比定されるなど,実際には現鹿屋市域の内南部の一部や錦江湾沿岸を除くほぼ全域が当院に含まれたと考えられる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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