高城郷(近世)

江戸期~明治22年の郷名。薩摩国高城郡のうち。鹿児島藩直轄領,外城の1つ。慶長4年それまで殿領(豊臣秀吉直轄地)であった高城郡は慶長の役の戦功によって島津忠恒(家久)に返還され,以後島津義弘夫人(忠恒の母)の湯沐【とうもく】の地として,押川強兵衛公近を代官として統治し,慶長18年になって外城成立(川内市史)。江戸初期当郷は湯田・西方・大川・高城上・高城下・麦之浦・網津【おうづ】・草道・水引・千台宮内・千台大小路【おおしようじ】の諸村からなる。地頭仮屋は高城下之村(麓村)中央部の妹背城(高城古城)下に置かれ,周辺に麓が形成された。地頭には,慶長18年川上左京,寛永元年新納仲左衛門,寛文3年福屋助左衛門など,噯【あつかい】には慶長18年上床主税介・楠元筑後,元和年間愛甲杢助などの名が見える(川内市史)。寛永6年当郷のうち網津・草道・宮内・五代・大小路の5か村が水引郷として分立,大川村が当郷(高城郡)から分離して阿久根郷に入り,当郷は城上(高城上)・麓・麦之浦・湯田・西方の5か村となる。慶長4年加増目録では,高城郡13か村で6,978石余(川内市史)。寛永13年の人口2,537(高城村沿革史)。寛永16年「御分国中惣高並衆中乗馬究帳」では,衆中高725石余(うち寺家高6石),衆中163(旧記雑録)。「享保御改」では,郷総高5,602石余(うち衆中高559石余),衆中総人数661(うち人体186),用夫533,野町用夫16,浦用夫41。「薩藩政要録」では,地頭伊集院蔵主,郷士惣人数1,528,郷士人体387,所惣高5,200石余,郷士高765石余・寺高6石,用夫984,野町用夫16,浦用夫50。「要用集」では,地頭町田監物,郷士総人数1,568,郷士人体431,所総高5,613石余,郷士高1,049石余・寺高6石,用夫1,033,野町用夫33,浦用夫154。西部の東シナ海に面した西方村では浦が発達しており,文化3年「諸浦御奉公並万上納物之定」によれば,浦男女160人,浦38人立,雇46人立,魚運上銀30匁,漁師銀6匁。また,同村には火立番所・遠見番所が置かれたという(川内市史)。野町は麓村に形成され,「高城町」とも呼ばれた。隈之城郷東手村向田から川内川を渡った薩摩街道は大小路村から麓村を通り,麦之浦村の中央部を北上し一条殿坂を経て西方村「御行館」前に至り,海岸沿いに阿久根郷に通じていた。物産には茯苓・半夏・椎蕈・木耳・雉・鳧【かも】・野猪・鰹・鯛・鰺・鰤・鯉・鮒などがある(三国名勝図会)。明治2年地頭仮屋内の稽古所を講道館と改称。ここで地頭仁礼平助(のちの海軍卿海軍中将子爵仁礼景範)が生徒に対して時勢の進運と大勢を諭し,かつ,優秀な生徒を集めて橋口良介などが中心となり,四書五経等の講読試験を行った。同3年第48郷校と改称(のちの高来小学校)。明治4年鹿児島県に所属。同年出水【いずみ】郡阿久根郡治所の管轄下となる。のち,第34大区,第2支庁を経て,同12年阿久根郡役所,同14年からは薩摩郡隈之城郡役所の管轄下となる。戸長は各村ごとに置かれ,5か村連合戸長役場は麓村に置かれた。「地理纂考」では,高5,580石余,戸数1,766・人口8,606(士族4,324・平民4,282)。「県地誌」では,戸数1,400・人口9,107(士族4,418・平民4,689)。明治22年当郷5か村は高城村となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7462522 |





