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坊村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。薩摩国河辺【かわなべ】郡坊泊郷のうち。坊津【ぼうのつ】村ともいう。江戸初期,当村が1郷として把握されることもあった(県史)。村高は「天保郷帳」によれば,坊津村として539石余,「旧高旧領」によれば157石余。天明中頃,もと泊津にあった地頭仮屋が当村中坊の近衛信輔謫居跡に移された(三国名勝図会)。当村は古くから海外貿易の拠点で坊津港は唐港といわれた(同前)が,寛永12年の鎖国令により密貿易の基地となり,さらに享保年中の一斉取締りによって漁港となった。漁業はカツオ漁が中心で,文化・文政の頃から最盛期となった。文政6年には製造家10・漁船11,安政年間には製造家16・漁船23。寺院には紀州根来寺の末寺真言宗西海金剛峰如意珠山竜厳寺一乗院,臨済宗清月山広大寺,ほかに江戸後期廃寺となった曹洞宗栄松山興禅寺があった(三国名勝図会)。神社には八坂神社・熊野権現社・一ノ宮大明神社・霧島社などがあったが明治43年に八坂神社に合祀された。ほかに当村には古来よりの中国貿易に関係する異人宿や,中国人遭難者のための沈溺諸霊塔があるほか,幕末期島津斉彬が建造した白糖方などがあった。近衛信輔が当地に配流された時,和歌に詠じた中島晴嵐・深浦夜雨・松山晩鐘・亀浦帰帆・鶴崎暮雪・網代夕照・御崎秋月・田代落雁の8題は坊津八景という(三国名勝図会)。明治2年南方郷に所属。「県地誌」によれば戸数684・人口3,575,うち士族508・平民3,067,日本型船133隻。明治16年の戸数674・人口2,811。明治6年変則小学校が,排仏毀釈で廃寺となった一乗院跡に設置,同8年正則小学校となる。明治17・18年と暴風により被害をうけ,飢饉となり一部種子島へ移住した。明治22年西南方村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7463323