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糸満村(近世)


 王府時代~明治41年の村名。島尻方,はじめ島尻兼城【しまじりかねぐすく】間切,のち兼城間切のうち。「高究帳」では島尻兼城間切いとまむ村と見え,照屋村と併記され,高頭138石余うち田73石余・畑65石余。「由来記」では兼城間切糸満村と見え,「中山伝信録」に絲満と見える。脇地頭の置かれた村で,糸満掟の管轄。康煕12年(1673)魚類や海草の豊富なイナン地ジャカ(伊那野地謝嘉)神ノ干瀬を糸満村百姓中が上納銭100貫文で請けたものの,同17年泊村の訴えにより泊村・若狭町村へ銅銭240貫文で移管。同31年糸満村の再訴で糸満村へ下置されたが,雍正7年(1729)那覇【なは】・泊諸士の訴えで,以後,那覇・泊村が使用した(里積記/那覇市史資料1‐2)。「由来記」に糸満ノロ火の神・ヨリアゲノ嶽・殿・糸満里主所が見え,糸満ノロの祭祀。康煕58年に来琉した冊封副使徐葆光の「遊山南記」に「曰絲満墟,前数十家面海,石益奇,以渡馬」と見え,白銀岩について「讌白金巌下,巌高十余丈,一面砥平如削,古樹蔭翳,石洞虧,邨男女皆隠,身石罅中,戢戢窺客」とあり,また「辺土行将尽,揺鞭絲満村,渓深査渡馬,廬合樹為門,村女崖隙,山農列酒,白金聯句就,書破翠巌痕」と見える(日本名勝地誌11)。住民は,古来漁業を営み海事に長じ,乾隆52年(1787)から咸豊8年(1858)までに難破船の救助や貢船の引導などの功により,延べ40人の村民が位階を与えられた(球陽尚穆王36年条・40年条・41年条・42年条,尚温王7年条,尚泰王11年条)。道光元年(1821)阿蘭陀船1隻が漂来したため,食糧として牛1頭・羊1匹・鶏5羽・番薯200斤を給した(球陽尚灝王18年条)。咸豊6年にはアメリカ商船の乗組員が糸満村の浜に上陸,那覇への案内人として村人1人を連れ,那覇に入港した(球陽尚泰王9年条)。同治7年(1868)兼城間切下知役(呉姓11世幸保)への褒賞状によれば,「糸満村は漁猟の働きを以て相素立候,故に天気悪しく海に出られず節は,何ぞの仕口もなく,酒を呑み喧口論等にて難渋」するため,風俗取締まりのため地内の西村・仲村・新島に下知人を1人ずつ立てたとある(呉姓与儀家家譜)。兼城間切各村内法に「当村海ハ南中西海ヲ三ツニ分ケ西村・仲村・新島村壱ケ年廻リヲ以テ所持」とあり,また「旧四月上旬・仝五月三日(海神祭リノ為メ),仝七月十三日・仝十五日(先祖祭リノ為メ),仝八月上旬(海神祭リノ為)タタチャート唱へ,男十七歳ヨリ四十九歳迄惣出各所持海ヨリ魚ヲ取獲スルモノトス」とある(県史14)。明治6年脇地頭の糸満親雲上の家禄は20石で,物成は6石余,領地の糸満村から作得として9石余を受けている(同前)。明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属。明治9年河原田盛美は「琉球紀行」で,「糸満ニ着ス,此近海湾屈曲シテ田地開墾適当ノ地ナリ,村民少シク開墾セシ処アリ」と記している(県史14)。同14年の「上杉巡回日誌」によれば,糸満村は漁業を中心にして,数百間の地に戸数929・人口5,300余と多く,首里・那覇に次ぐ大集落とある。また,沖縄の漁業の発祥地で,本島沿岸はもちろん,宮古・八重山地方までも出漁し,「皮相スルニ,貧困ノ様ナレトモ,其実富邑ナリ」とある。物産は米・麦・豆・砂糖・蕃藷・魚介など(県地誌略)。同16年糸満小学校を兼城小学校より分離開設。同21年那覇警察署糸満分署設置。同32年大火があり,30戸余が全焼。同36年公費緊縮のため,島尻郡各間切は村頭および付属員を全廃し,間切役場に書記および付属員を増加することになったが,糸満村は除かれた。同年第1回糸満村会議員選挙が行われ,有権者総数769名,議員数12名であった。同年第1回の村会を劇場で開会。同年糸満浦漁業組合創立総会,同37年糸満郵便局電信開始式が行われた。同年村立糸満水産補習学校開設,同38年兼城間切立糸満水産学校と改称。同年糸満遠洋漁業創立。同39年糸満登記所を設置。戸数・人口は,明治13年1,017・5,587(男2,721・女2,866),同36年1,190・6,784(男3,292・女3,492)うち士族70・413。明治36年の民有地総反別98町余うち田19町余・畑54町余・宅地17町余・塩田8反余・山林1町余・原野4町余(県史20)。同41年島嶼町村制により,自治体の糸満町となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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