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浦添間切(近世)


 王府時代~明治41年の間切名。中頭【なかがみ】方のうち。万暦48年(1620)の「ようとれのひのもん」に「うらおそいまきり」と見える。浦添郡とも書く(旧記・球陽)。「絵図郷村帳」では沢岻【たくし】・安謝・勢理客【せりきやく】・小湾・仲西・屋富祖【やふそ】・城間【ぐすくま】・牧港・伊祖・仲間・前田・西原・棚原・我如古【がねこ】・宜野湾【ぎのわん】・神山【かみやま】・嘉数・じゃ那・大謝名【おおじやな】・宇地泊・喜友名【きゆな】・新城【あらぐすく】・伊佐・宮城【みやぎ】・親富祖【おやふそ】・安波茶【あはちや】・によへなの27か村。「高究帳」では合高5,335石余うち田2,700石余・畑2,634石余。康煕10年(1671)一部が宜野湾間切となる。のち棚原村が西原間切のうちとなり,また廃村や新設村もあって,「由来記」では沢岻・安謝・勢理客・小湾・仲西・屋富祖・城間・牧港・伊祖・仲間・西原・宮城・親富祖・安波茶・内間の15か村が記される。このうち,安謝村と内間村は同じ村の別称で,実際には14か村であった。その後親富祖村は屋富祖村に編入され,また前田村が続いていたので,14か村をもって近代に至る。なお,「旧記」にはほかに又吉村が見える。間切番所は,「旧記」には浦添邑に置かれたとあるが,これは仲間村のことである。中頭方・国頭【くにがみ】方の西宿(官道)の起点であった。康煕2年武富親雲上重隣が中国から白砂糖の製法を伝え,間切の住民に伝授した(球陽尚質王16年条)。「琉球一件帳」によると,砂糖の年納高6万7,322斤(那覇市史資料1‐2)。乾隆9年(1744)勢理客橋の改修に,間切夫延べ2万781人が動員された(重修勢理客橋碑)。同24年中頭方取納座定手形によれば,浮得税は九年母69本(納銭34貫500文)・くり船2艘(納銭2貫文)・酢之木15本(納銭3貫750文)・棕梠981本(納皮1万1,772枚)であった(地方経済史料10)。乾隆58年から嘉慶10年(1805)まで,疲弊した間切の再興のため,咸姓8世政吏が検者・下知役に4度任じられている。彼は,乾隆60年からの5年間に間切負債82万貫文余を返済させたが,76万貫文余を残している。また嘉慶10年には,未進高321石余・負債136万4,000貫文余の返済,抵当となっていた田畑314石余・身売人110人余の引戻し,3,000坪余の水田を開墾し,塩田の再興を図ったとして褒賞されている(咸姓小宗家譜/那覇市史資料1‐8)。「球陽」によると,同治2年(1863)・同11年にも指揮司(下知役)が設けられた(尚泰王16年条・25年条)。耕地面積は,名寄帳に田931反・畑1,906反とあり,竿入帳では田1,635反・畑4,401反うち百姓地4,460反・地頭地1,068反・オエカ地176反・ノロクモイ地51反・仕明地78反・請地178反・仕明知行25反(県史21)。地割方法は,浦添間切の大部分の村では叶米見立の法によらず,既定の持地数から算出した坪数で地割地を抽選した(同前)。拝所に御嶽・森25,ノロ火の神5,殿22があり,浦添・沢岻・中西・饒平名・城間の5人のノロが村々の祭祀を管掌した(由来記)。泉井は24か所(旧記)。元旦の朝,国王に献上する水は,吉方子の時は浦添カガミ川,丑の時は同所アサナ川,亥の時は沢岻樋川から水取りをした(由来記)。明治6年按司地頭の作得21石余,総地頭の作得23石余(県史14)。明治10年2度目の一向宗法難事件で,男2人・女5人が検挙された(県史12)。同12年沖縄県,同29年中頭郡に所属。明治15年間切番所内に浦添小学校を創立,男子児童30人。同18年学校は火災にあい,仲間村下知役詰所に移転(創立百周年記念誌)。同26年の「石高村別台帳」では百姓地2,159石余・請地179石余・仕明地52石余で,計2,391石余(浦添市史2)。同36年安謝橋が開通し,那覇【なは】への交通が便利になる。同37年中頭郡の旱魃でサトウキビ・サツマイモ・米の収穫は2割減,全戸数2,338戸のうち264戸が自給自足できない状態となる(同前)。戸数・人口は,明治13年1,851・8,708うち男4,347・女4,361(県史20),同26年2,040・1万269,うち士族357・1,929で,農業は2,040戸・5,736人(県統計書),同36年2,352・1万1,096(男5,437・女5,659)うち士族401・2,074(県史20)。明治36年の民有地総反別1,573町余うち田78町余・畑1,100町余・宅地97町余・山林136町余・原野156町余・雑種地4町余(同前)。同41年島嶼町村制により自治体の浦添村となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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