大中村(近世)

王府時代~明治29年の村名。首里南風平等【はえのひら】のうち。南東端に竜潭に臨んで立地する北谷御殿は,妖術使いの怪僧黒金座主を殺した北谷王子朝愛(尚質王第4子)の邸である。殺された座主は北谷御殿(のちの大村御殿)の南東隅の十字路に埋められたが,夜な夜な路上に首を出したという。この伝説から生まれた童謡「耳切り坊主」に謡われる「大村御殿の角」はこの北谷御殿の角に当たる。北谷御殿の北西方に聞得大君御殿があり,康煕45年(1706)聞得大君はここに移ってきている(女官御双紙)。慶長14年島津侵入時の兵火で焼失した汀志良次【てしらじ】村の聞得大君御殿再建までの仮殿だったようで,雍正8年(1730)には汀志良次村の御殿に移った。その後この御殿跡は譜久山殿内となり,その西隣には摩文仁御殿があった。また,村の北部にあった羽地御殿は,向象賢(羽地朝秀)の屋敷である。彼は,尚質・尚貞の2王代(1648~1709)の摂政を勤めた琉球の名政治家であり,「中山世鑑」の編述者でもある。19世紀初め,南風平等学校である講舎と村学校の逢源斉が設けられた。「琉球一件帳」によれば平士の家78(那覇市史資料1‐2)。同治9年(1870),北谷御殿・本部按司などの跡地に世子殿(中城御殿)の建設を始め,同12年竣工,同14年世子殿は綾門大道【あやじようおおみち】に面した旧殿から当地に移転した。明治12年沖縄県に所属。翌13年首里を7管区に分治した際,大中村は桃原村役場の管下となり,県の直接管轄となる。同年中城御殿の米蔵跡に首里警察署が置かれた。明治13年の戸数200・人口1,054うち男481・女573(県史20)。同28年の戸数193(首里市制施行十周年記念誌)。同29年首里区の字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7464035 |